「……ろこ、黒子!」 「は、はい! なんですか火神くん」 夢見の悪さが尾を引いているのだろうか。 授業も昼休みも午後の体育も、どこか心ここに在らず、と言った体で過ごしてしまった黒子は、未だどこかしゃっきりしないままだった。今日が試合じゃなくて良かったと思うと同時に、意外なメンタルの弱さを実感して情けなくなる。 「部活。行かねぇのかよ?」 「ああ、行きます。待って下さい」 しまいには「なーんか今日のお前はボーっとしてんな。授業は大丈夫なのか?」とまで言われてしまう始末である。 しかも、授業中は常に寝ている同級生・火神大我に、だ。 他人のことを気にする前に、自分の授業の心配をしてほしいと黒子は心の底から思った。 まぁ、火神の場合、次に赤点取ったらバスケ部を退部してもらうからな、とか先生方に言われない限り、本気を出してくれそうにないのだけれど。 「火神くんにアンニュイという言葉は似合いませんね」 「……それは褒めてんのか? 貶してんのか?」 「褒めてるんですよ。やっぱりバカガミくんなんだなぁ、と」 「それ、完全に貶してんじゃねーか!」 鬱々とした気持ちを晴らすように、とりとめもない会話をする2人。 口ではあーだこーだ言っていても、流石は相棒といったところか。さりげなく自分のことを考えてくれているらしい火神と話すうち、黒子はかなり気が紛れた気がした。 「『影』だからって気持ちまで暗くなってんじゃねーよ」 「そうですね、すみません」 口に出しては言わないが、心の中で火神に感謝の念を言う黒子。実のところ、部室に着いた頃には気持ちが大分楽になっていたのだ。 急いでユニフォームに着替えて部室を飛び出す。ホームルームが終わって結構な時間がたったせいか、部室に先輩たちの姿はなかった。いくら誠凛が1、2年生しかおらず、2年生の先輩方が皆優しいと言えども、理由のない遅刻が許されることではないのだ。 火神を追いかけるように、体育館まで走る。アップにはちょうどいいかもしれないと思っいながら脚を懸命に動かしていたとき、 「きゃっ!」 「あっ」 そこを通りがかった女子生徒と、正面衝突した。彼女の持っていたスクールバッグが宙を舞い、互いに尻餅をつく。 後ろで何かが起こったことを察知したらしい火神が振り返る。 「おい! 大丈夫か!?」と駆け寄ってこようとするのを手で制し、先に行くようジェスチャーしながら、ぶつかった少女の方に向き直った。自分だけならまだしも、とばっちりで火神までもが遅刻するのはマズイ。 「すみません、急いでいたもので……。お怪我はありませんか?」 「いえ、大丈夫です。こちらこそごめんなさい。……あ、」 ぺたんと座り込んだままの少女に右手を差し出して……そこで気づいた。 体育館の前でぶつかったのは、朝方、黒子を苦しめた人物だった。 「さん?」 「黒子、くん」 最も会いたくなかった人間に会ってしまった割には、その反応は随分と良いものだと思う。 元々、ポーカーフェイスにはかなりの自信がある。おそらく、ほとんどの人は自分の変化に気付かないことだろう。 ―――まぁ、ぶつかった相手がどうだかは分からないが。 おっかなびっくり表情を窺うが、どうやら彼女はそれどころではないようだった。 びくびくおどおど。それはまさに、猛獣に怯える草食動物のごとき動作。 中学時代の彼女を知っている者には到底信じられないようなほどの脅えっぷりだ。 「まだ……バスケ続けてるんだね」 黒子から―――正確には黒子の着ているユニフォームから―――視線を逸らしながら、彼女は落ちた鞄を拾った。そこに付けられたウサギのキーホルダーを見て、一気に物哀しい気持ちがぶり返してくる黒子。 昔の彼女ならば、間違いなくバスケットボールのキーホルダーを付けていただろう。 でも、それは過去の話でしかない。 目の前の少女が笑顔でバスケをしていたはずの未来は、あっけなく途絶えてしまったのだから。 「ええ。ボクにはこれしかないので」 居場所はここにしかないですから、とコートを指さす。 開かれたままの体育館の重い鉄の扉からは、汗を垂らして練習に励むバスケ部の先輩たちの姿が見えた。 「さんは、本当にバスケやめたんですね」 「……うん。もう、バスケをするのも見るのも嫌だから」 一瞬、答えるのを逡巡するかのような間があったような気がした。 「そうですか」 「バスケの全部が嫌なの。ボールの感触も、バッシュのスキール音も、ネットをくぐる音も、選手も、何もかも」 その昔、自分も同じことを思っていたことを、彼女は知っているだろうか。 勝利のためとはいえ、仲間と共にコートに立ちながらも、実質は個人プレイで戦っていた頃。バスケが全く楽しくなくて、ただただ辛いだけだったのを思い出す。 でも、彼女がバスケを嫌いになった理由はそれではない。 今、この目の前の少女は『嫌』という表現を使ったが、それは正しくないはずだ。本当のところ、『怖い』のだろうと思う。 そんな恐怖心を言わないのは、他人に迷惑をかけたくないという気持ちからなのか、はたまた自分が信用されていないからなのか。 できれば、深く考えたくはない案件である。 「そうですか」 なかなか2人が動かないことに異変を感じたのか、火神が体育館から心配そうに様子を見に来た。上履きからバッシュに履き替えたらしく、きゅきゅきゅっと床を鳴らして寄って来ると、扉から顔を覗かせる。 その音だけでも、両耳を覆い、蹲るようにしゃがみこんでしまった。 一体、何があったというのだろう。何があったのかを、黒子は知らない。知ることが出来ない。 「高校に入ったら、静かにやり直そうと思ったんだけど」 簡単にはいかないみたいだねと呟き、けだるそうにゆっくり立ち上がる。そのまま体育館に背を向け、鞄を背負い直した。 「ごめんなさい。試合とかは観に行けないけど、でも心の中ではずっと応援してるから」 「別に気を遣ってくれなくても良いですよ」 昔ならまだしも、今の2人の関係性は、自分たちの心の辛さを我慢してまで応援されるほどのものではないのだから。 しかし、 「ううん、そんなんじゃないの」 そう言って笑う。 「私は、いつでも黒子くんの味方でいたいんだよ」 呼び方に違いはあれど、その笑顔は、昔から見慣れたものと変わらなかった。 +++ 「ねぇねぇ黒子くん、さっき喋ってたあの子と知り合いなの!?」 遅れました、と言いながら体育館に入った黒子を待っていたのは、テンション高めに話しかけてくる監督の相田リコだった。手にはこの間の練習試合のDVDを持っている。今日の練習の後にでも、皆で観るつもりなのだろう。 「はい。中学時代の同級生です」 ―――やはり見られていたか。 やけに視線を感じるな、とは思っていた。もちろん、それが火神の物だけでないことは明白だった。まさか、カントクに見られているとは思っていなかったが。 同級生、という当たり差し障りのない答えを返す。本当は幼馴染みだが、そこまで詳しく言いたくはない。 黒子の本音など露知らず、「じゃあ、やっぱりそうだ!」と言うと、嬉しそうにスキップをしている。 「今のって、『キセキの世代』からも一目置かれていたって言う、女子バスケ部主将で、天才プレイヤーと謳われたさんでしょ!?」 バスケ部の人たちには、特に。 このような状況でバレるのは彼女の本意ではないだろうな、と思う。それと同時に、幼馴染みだと言わなくて良かった、と改めて胸を撫で下ろした。更に込み入ったことを聞かれるのが、目に見えている。 「そういや、見たことあるな。月刊バスケットボールマガジンのワンコラムに載ったことあっただろ」 『今月の注目株!』のコーナーに出てるの見たことあるような気がする、と、キャプテンの日向順平までもがそんなことを言い出す。 「そんな有名人がウチにいたとは知らなかったな……」 「ああん、もう〜。新入生全員チェックしたはずなのに、私のバカ〜」 そのわりには、黒子も火神も全くもってノーマークだったのだが。 まぁ、黒子の技を考えれば気付かないのも無理無いし、火神の場合は海外にいたこともあって情報が全くない状態だった。仕方ないといえば、仕方ないだろう。 「あ、でももう、さんはバスケしないですよ」 「ええ!? なんで、もったいない!」 バスケ界の大きな損失じゃない! と大げさな様子で嘆くカントク。男装でもさせて試合に出すつもりだったのか、「部活に参加してもらおうと思ったのに……残念」などと、とんでもないことを言っている。 「んー、ならマネージャーでも良いから、入ってくれないかな」 頭に被ったタオルから、暖簾のように顔をのぞかせて、伊月俊が言う。黒子と火神がのんびりしている間にもう大分アップを済ませてしまったのか、汗びっしょりだった。 「そうそう、カントクの代わりに料理とか頼みたいし!」 もうあのレモンの蜂蜜漬けは嫌だよー! と言いながらタオルをぶんぶん振る小金井慎二の言葉に、水戸部凛之助までもが頷き、同意を示す。むっとしたような反応のカントクだったが、事実なためか何も言い返す言葉がないようだ。 「バスケ経験者なら大分要領も分かるし、初心者に頼むよりいいもんな」 普段は天然ボケの激しい木吉鉄平までもが珍しくまともなことを言うが、 「それはムリだと思います」 黒子には、それが不可能なことだと分かっていた。 「どうして?」 黒子がキセキの一員であったことを知っている者がごくごく一部に限られているのと同様に、が凄腕の選手であったことを知っている人間も決して多くない。 それは偏に、おそらく彼女の名声―――『キセキの世代に匹敵するほどの天才プレイヤー』と持て囃された期間が圧倒的に短かかったことに由来するのだろう。 「バスケに関わるもの全てが、怖いそうなので」 彼女がきらびやかな名を得ていたのは、2ヶ月にも満たぬ、わずかな期間なのだ。 それは突然のことだったという。 一時限目の後、朝に没収されたケータイを取りに職員室を訪れた1人のバスケ部三軍の男子生徒が、バスケ部の顧問に質問責めにあっているを見つけたのが始まりだった。 力なくうなだれて、教師の問いかけにただ「はい、はい」と答えるだけのその珍しい姿に、何があったのか耳を澄ませたところ、『部活をやめたい』と言っているのが聞こえたそうだ。 噂話は、あっと言う間に広がり……その日のうちに、黒子たちキセキの世代全員の耳にも届いた。 緑間も青峰も紫原も黄瀬も、そして黒子も。全員が驚き、衝撃を受けたのだ。 ―――ただ唯一、赤司を除いて。 それなのにも関わらず、周囲の人間は、赤司ではなく、黒子にのことを尋ねて来た。 何故部活をやめたのか。何か大きな理由があるんじゃないのか。詳しいことを何か聞いていないか。彼らは、口ぐちにそう聞いてきた。 「どうしてボクに聞くんですか」と問えば、「幼馴染みだと聞いたので」と言われる。 幼馴染みだから、一体何だと言うのだろうか。 結局のところ、自分は何も知らされず、蚊帳の外だったと言うのに。 同じくショックを受けた桃井が泣きそうになりながら理由を問い詰めたそうで、その話を聞いてようやく、「バスケ関連のものが怖くなった」のが原因だと知ったくらいなのに。 バスケ関連のもの、というなら、当然ながら選手である黒子も入っている。 だから、の前から姿を消した。それが彼女の幸せになるのだったら、良いと思っていた。 ++++ 「おい、さっき言ってたお前の中学の同級生の話だけどよ、強いのか?」 練習を終えた後。火神と黒子の二人は、いつものようにマジバのテーブルに向かい合って座っていた。 テーブルの上には、頼んだ山のようなチーズバーガーと、バニラシェイクが乗っている。 「……火神くんは、本っ当にバスケ馬鹿ですね」 バニラシェイクの容器の表面を垂れていく水滴を眺めながら、黒子は若干わくわくしているらしい火神に溜息を吐いた。 きっと、心の中では対戦してみてぇなー、などと思っているのだろう。 「個人的な能力が高かったかどうかはさておき、少なくとも、ボクら六人と桃井さんはその実力を認めていました」 「六人って、キセキ全員じゃねーか」 包み紙を剥がし、チーズバーガーに食らいつきながら、火神は先程見かけた少女の姿を思い出す。 小柄な身長。細身の体躯は、しなやかと言えば聞こえがいいが、ほとんど筋肉がついていなかった。動きも、とても俊敏には見えないのんびりとしたものだった。 黄瀬や紫原なら分かるが、あの緑間や青峰、赤司までもが認めるほどの実力だというのが、火神には納得がいかない。 「さんは、確かに背も高くないし、体格も良くないです。どちらかと言えば非力な部類でしょう」 さすがのカントクも、ちらっと見かけただけのの体力数値を(例え服の上からであっても)見なかったようだし、もし仮に見ようとしても男子生徒を前に「シャツを脱げ!」とは言わないだろうが、その数値は、おそらく抜群に低い。黒子とほぼ変わらない、あるいはそれを下回る結果が出るはずだ。 「その代わり、彼女には、PGとして最高峰とも呼べる、類まれな統率力と頭脳的センスがあった。言わば、花宮真に近い形のプレイスタイルです」 戦うことに純粋になった花宮を想像して下さい、と黒子は言った。 つまり、それは相手の攻撃パターンを完全に読み切って戦いを挑んでくるということであり。 「……そりゃあ強いな」 「そのカリスマ性を評価されて、さんは主将を任されていました。帝光中は女子バスケ部員も100人以上いましたから、その中で1軍のユニフォームを貰っていた、というのがどれくらいの強さを表しているか、分かりますよね?」 三軍に埋もれていた黒子の能力を見出したのは赤司だった。赤司がいなければ、キセキの世代と共に闘っていた自分も、今の自分もいない。 そう考えると、赤司の起こした功績は、黒子にとってすごく偉大で、文字通り『キセキ』とも呼べるくらいのことだ。 だけれど、はそれを自力で勝ち取った。 黒子と、同じくらいの体力で同じくらいの実力だった彼女が、自分だけの力で。 「なら、あの『キセキの世代』が一目置くのも納得が行くか」 その背景には、きっと血のにじむような努力と練習があるのだろう。 「バスケ、好きだったんだな」 「大好きだったと思います。毎日すごい量の練習をそれはそれは楽しそうにこなしていましたから」 どんなに過酷な練習も、笑顔で乗り切っていた。 少しでも上達する度、休み時間になると黒子の元へ報告に来ていたことを思い出す。 ―――まぁ、それも中学二年までだったけれども。 「っつーか、お前そいつのこと詳しいのな。好きだったとかか?」 六つ目のチーズバーガーに取りかかりながら、からかうように言う火神に、 「……大切な、幼馴染みでした」 誠凛の先輩たちにも言えなかったことを、黒子は淡々と返した。 「幼馴染み……? 青峰とあのピンク色のマネージャーみたいなもんか?」 「火神くんと氷室くんみたいなものです。ボクとさんは、一緒にバスケを始めたんです。良きライバルでしたし、よく一緒に練習もしました」 中学一年生の頃は、部活の後によく1on1をやっていたんです、と黒子は回想する。 あの懐かしい日々は、今と何もかもが違っていた。 まだ2人ともレギュラーではなかったし、実力にもさほど差はなかった。体格も身長も背格好も似ていたし、まるで仲良しの兄妹のようだった。 公園で転がるようにボールを追いかけ、その後はその日あった出来事を話しながら一緒に帰るのが、放課後の日常だった。 「中一の頃『は』ってことは、その後に喧嘩でもしたのか?」 「喧嘩じゃありません。お互いレギュラーになって、忙しくなってそれどころじゃなくなっただけです」 ムキになったように言い返すことには気付いていないんだろうな、と火神は思う。 感情を露わにする黒子は珍しい。よほど触れられたくない過去なのだろう。 「でもまぁ、いつかは仲直りでき、」 「―――ところで火神くんは、花を愛でたりする人ですか?」 「は、はぁ!?」 何か励ましの言葉でも言おうと口を開いた火神の言葉を遮って、唐突に意味不明なことを言う黒子。 「こっち帰ってきて、日本の桜は綺麗だとは思ったけどよ……。それが今、関係あるのか?」 挙句の果てには、柄にもないようなことを言わされる始末だ。頭をがしがしと掻いて、恥ずかしい気持ちを誤魔化しながら、火神は答える。 「じゃあ、まもなく大輪を咲かせようとしている花が無残にも摘み取られたら、どうしますか」 「怒るだろうな」 そうでしょう、と言う黒子の声は、何処か掠れていた。 「ボクはそうならないよう、彼女を守りたかったんです」 土を耕し、肥やし、水をやり、強風等の悪天候から守ってやりたかった。 綺麗なままでいてほしかった。 ずっとずっと近くで愛でていたかった。 それだけ、だったのに。 「……なぁ。お前、ホントはそいつのこと……」 その気持ちが、『ただの幼馴染み』に対する感情としては行きすぎだ、と言われればそれまでだろう。だがしかし、黒子はそれを指摘されたとしても上手く言い返すだけの切り札を持っていた。 「それに、ボクがもしさんを好きだったところで、どうにもなりませんよ」 寂しそうに目線を床に落として、切り札代わりの台詞を告げる。 「彼女は、赤司くんの恋人だったんですから」 息を飲む音がし、驚いたらしい火神の手から最後のチーズバーガーが滑り落ちた。 それを拾い上げて手渡しながら笑う黒子の、その不自然な作り笑顔は、ぞっとするほど暗くて、怖かった。 |