それは、何というべきか奇妙な共同生活だった。
そこに、恋や愛、のようなものは存在しなかった。あるのは、家族愛のような曖昧な関係だけ。
ただ静かに、同じ穴のムジナが小さな空間に犇めき合って生きているような。
寂しがり屋なくせに、自尊心は高い彼らは、何も言わず、冷たい肩を寄せ合って生きていた。












「おいルッツ、見ろよ」



兄のギルベルトにそう面白そうに言われ、ルートヴィッヒはそっと指先の方向を覗き込んだ。



「あ、」



口から出た言葉は、驚き以外の何者でもなかった。




「寝てる、のか……?」



そこで、その少女―――本田は、眠っていた。
美しい黒髪をソファーの上に押し付けるようにして、その小さな身体を、さらに小さく丸め込み、少女はすやすやと寝息を立てている。




「な? マジ天使だぜ!」




決して「少女」ではない。人の姿はしているものの、彼女だって「国」だ。
この兄弟や、彼女の兄である菊には負けるが、そこそこの歴史はあった。
そこから考えれば、彼女も立派な「レディ」で。
近頃は特に、身体のその美しいラインは本当に、女性らしくなってきた。
しかし、その白い頬に残るあどけなさが、まだ「少女」と呼ばれる所以である。




「……兄さん、起きるぞ、静かに」
「おぅ。でも、寝顔も可愛いな、はよー」




これがもし、ギルベルトでなければ、ただの「問題発言」だった。
しかし、その人懐っこい笑みは、どちらかと言えば、父親か兄に近いようなもので。




「そうだな」




そんなこんなで、を覗き込んで話していると、当の本人が目覚めた。




「……あの?」




酷く困惑したおぼつかない視線で、は交互に自分を覗き込む男たちの顔を見比べる。
愛らしい瞳は少し潤み、その中心は光を反射させていた。
下手をすれば襲われかけられたかもしれないこの状況でも、は顔色一つ変えない。




「ケセセ、Guten morning、!」
「……ぐーでんもーにんぐ、です」




ぱちくりと、もう一度瞬きをすると、ギルベルトの瞳に魅入っている
確かにギルベルトの瞳には、他人を惹きつける不思議な力があることは、ルートヴィッヒも気付いていた。
それは樹液をあふれ出し、わけ隔てなく集まってくる虫に、それを与える木のように。




「頬っぺた、そこ。ソファーのあとがついてるぜー」
「ん……?」




ゆっくりとは、言われたところに触れた。
それを確認したギルベルトが、部屋の隅を占拠するレコードをかける。
何処か懐かしいそれは、埃を被ったようにくすぶりかける音楽を奏でる。



彼女にとっては馴染みのない、異国の音階。



彼女は、この曲をどう思って聴いているのだろうか?




は可愛いなー。エリザにも見習って欲しいもんだぜ!」



おどけて言ってみせるギルベルト。
……兄は気づいているのだろうか。




「いえいえ。この間お会いしましたが、エリザベータさんには敵いません」
「まぁ確かにエリザも美人だけどよー、あいつは性格が男だからなー」




なぁ小鳥さん? と頭の上の存在に呼びかければ、ピヨ? と小さく鳴く小鳥。
……兄は気づいていないのだろうか。
その名前を呟くたびに、その目の前の少女が辛そうな顔をすることを。
気づいていないのなら、その理由すらきっと知らないのだろう。




「エリザのやつ、ローデリヒとべたべたしやがって……。あーあ、いつかはも誰かと結婚するんかなー。どうよ、ルッツなんか。俺様に似て色男だし、頼りがいはマジあるぜ!」
「……非常にもったいないお話ですね。でも残念ですが、お断りします」
「ケセセ! ルッツは真面目で面白くねぇのが玉に傷だもんな!」




そういって、ギルベルトはの頭を大きな掌で撫でた。




「触り心地が俺好み!」




嬉しそうに、そしてほんのり恥ずかしげに、頬を染めるの理由を、兄は気づいているのだろうか。




「おい、兄さん、さっきから言わせておけば……」
「本当のことだろ?」
「だいたい兄さんは昔から……」



昔から。
そこまで言って、ルートヴィッヒは言葉を濁した。
はまた、複雑な顔をしている。




菊に「そちらの法律のことなんかを学ばせて欲しいのですが」と頼まれ、Jaと返事をしたら、やって来たのがだ。
菊にはあまり家から出ない箱入り娘な妹がいるらしい、とは聞いていたが、実際に会ったことはなかった。
どうやら、妹可愛さのあまり、菊が今まで他国との接触を禁じていたらしい。
しかし「かわいい子には旅をさせよ、と言うでしょうし」と言って、この度の機会に寄こしたのだ。




彼女は過去のことを何も知らされていなかった。日本のことは全て菊が管理しており、彼女は蚊帳の外だったらしい。
知らない話をされて、戸惑う
しかも、ギルベルトは追い討ちをかけるように少年時代の話を始めてしまう。
は、ますます困惑した眼差しで、それでも必死に笑顔をつくり、相槌を打つ。




―――初めて、二人が一緒にいるのを見たときから、そうだった。



なんとなくだが、の好意の眼差しの対象は常に兄にあった。
菊からの「異常なまでに過保護に偏った愛情」を受けて育った少女が、優しさの塊のようなギルベルトに、心惹かれるのも無理のない話だとは思う。




「まぁ、風邪引くからな。寝るなら布団にきちんと入ってからにしろよ!」
「はい、すみません」
「ルッツなんか、俺様が何度布団をかけてやっても、蹴り飛ばすんだぜー」
「おい、兄さん」



とりあえず当分の間、の部屋だけは別で、残り2人は冷たいフローリングの床の上に毛布を敷いて、雑魚寝していた。
そんな不思議な共同生活は、もう何十日も意味もなく続いている。




「ケセセ、本当のことだろ? 寝相も最悪だしな」



そう言うと、はクスリと小さく微笑んだ。
その笑顔を当然、ギルベルトは見逃すこともなく。



「そうだ! 今夜は3人で寝るか!」
「は、?」
「だってよー。いつもだけ、仲間はずれみたいじゃねぇか」




そう言う問題ではないと思う、とルートヴィッヒは心の中だけで溜息をついた。
こうなると、誰も兄には反撃できなくなるのだ。
そう。まるで、この世の中の正しい法は全てギルベルトが管理しているかのように。




「ほ、本当にいいんですか……?」
「もちろん! なぁ、弟よ」
「……そうだな。布団運んでくる」
「よしっ、任せたぜー」



布団を運ぼうと立ち上がった際に何気なく見たは、凄く嬉しそうだった。ふくふくとした頬を緩ませている。
そのことが、何処か気に入らない。
そんな自分の気持ちを、ルートヴィッヒは、何処か釈然と感じていた。


変わらずケセセと笑い続ける兄も。
その兄の言動に、一喜一憂してみせる不安定な少女にも。



そして、ないものねだりをするような、幼稚な自身の感情にも。



(……なんで、兄さんなんだろうな)




答えは、イヤというほどはっきりと出ているのに。





アンブレラ・バランス


「あのバカ弟、なんか勘違いしてんな……。は、俺様じゃなくて、お前のことが好きなんだっつーの」
「ぴよぴよっ」



そう呟いたギルベルトの言葉は、頭の上の小鳥にしか届かなかった。