ぺらり。 ベッドに腰掛けて、目玉クリップで止められた分厚い書類を捲っていく。 ……ああ、太股が重い。 古泉一樹。まぁ、その名が本名かどうかは、定かでないが。 身長178cm。性別は男。北高の理数系の特別進学クラスである2年9組所属で、SOS団副団長。 成績は優秀で、人望も厚い。 資料に付属されている写真だけを見れば、爽やかな微笑を湛えた素敵な男子生徒にしか見えない。どこか胡散臭い部分を気にしなければ、顔かたちの整った、いわゆるイケメンという生き物だろう。 その上、穏和な性格で頭も運動神経も良いと来たら、女子生徒からの人気が高いのも頷ける。敬語属性ということもあるのか、一部の女子生徒からは特に熱狂的な支持を受けている、らしい。あまり感情を露わにしないのも好印象なのだそうだ。 アナログなゲームやボードゲームやクイズなどが好きで、字が下手くそ。 何度も何度も目を通した資料は、もう一字一句間違うことなく読みあげられるくらいに、暗記している。 だから、後半ページに履歴書に使われるような上半身の小さい写真の他、数十インチおきに線の引かれた壁の前で名前の書かれた紙を持って囚人のごとく写っている写真や、北高の制服姿や体操着姿、何故か水着一枚という際どい写真まであることも、私は知っている。 はぁ。溜息をひとつ吐いて、資料を閉じた。 ……ああ、太股が熱い。 古泉一樹は、真面目な少年である、と私は思う。 三年前の涼宮ハルヒ嬢の能力の覚醒によって、突如として超能力者になる、という理解不能で不可解な出来事があっても、何事もなかったかのようにそれを受け入れたと聞いている。 涼宮嬢が精神不安定になると閉鎖空間が発生してしまうため、赤い球になってそこへ侵入して神人を倒さねばならない、という過酷な運命を背負ってもなお、動じなかったそうだ。 それどころか、彼女と同じ高校に通い、同じ部活で活動するというおまけがついてきても、文句ひとつ泣き事ひとつ言わない。 私なら間違いなく耐えられないだろう。多分おそらく、発狂する。 神というのは、人に耐えられる試練のみを与えるというが、まさにその通りなのではないだろうか。彼なら耐えられる、と見抜かれたからこそ、あの力が与えられた。 ああ、念のため言っておくが、この場合の神というのは涼宮嬢のことではないので、あしからず。 私自身も古泉少年と同じ機関に所属している身ではあるが、涼宮嬢との直接的な関わりがほとんどなく済んでいるのは、幸運なことと言えるだろう。 なんせ、普段は、大学に通いながらアルバイトに勤しむだけでいいのだ。赤の他人を家族と呼んで共に暮らしたり、自分の趣味でない服を着て生活したり、似合わない口調で、似合わない性格を演じるだけでいいのだ。 ―――僕からしたら、あなたのほうが可哀想だと思いますけどね。変な人だ。 先週の土曜日、古泉少年は私にそう言った。 二人暮らしには広すぎるマンションのベランダで、煙草を吸いながらアロエとサボテンに水をやる私の背中に、そう告げたのだ。キャミソール1枚で、ズボンも履かずにベランダに出る女性はどうかと思います云々と説教じみたことを垂れられた後のことだ。お前はお母さんか。 びっくりするくらい動植物を育てるのが下手くそな私は、その日もアロエとサボテンが枯れそうなほど水をあげていた。それをやんわりと止めながら、これっぽっちも可哀想とは思っていない顔で呟かれたその言葉を、私は忘れることができない。 上半身だけを静かに動かして、ベッドサイドに資料をおく。柱に備え付けられた時計を見れば、そろそろ夕飯の準備をしないといけない時間になっていた。 ……ああ、太股が痛い。 古泉一樹は、不器用な少年である、と私は思う。 どんなときでも猫をかぶり、誰かの望んだキャラで居続けることを、他人は器用と呼ぶかもしれない。 しかし、彼はきっと不器用なのだ。不器用でなかったら、涼宮嬢に惚れることだってなかっただろうに。 誰がどう見ても、涼宮嬢はキョン氏にベタ惚れである。キョン氏が、涼宮嬢以外の女の子とフラグを立てそうな気配を見せると、閉鎖空間は発生する。その発生メカニズムは、ただの嫉妬。 そんなこんななのだから、当然ながら古泉少年に勝ち目はないわけで。 それでも彼は、好きになる気持ちを止められないわけで。 ……ああ、なんて愚かで可哀想な男なのだろうか。 涼宮嬢のことが好きだという事実に気づかれないのは、彼の周りに鈍いやつらばかりが揃っているからか、涼宮嬢が無意識下で好意を跳ね退けているからか、のどちらかじゃないだろうか。誠に残念ながら、北高の生徒ではない私に、それを知る術はないのだけれども。 そういえば明日は、日曜日。さっき見た天気予報では、美少女アイドルでもあるお天気お姉さんが、明日は良い天気になりそうです、と満面の笑顔で言っていた。 ならばお布団を干して、そうだ、シーツも洗ってしまおう。枕カバーもマットレスも太陽の匂いでいっぱいにしよう。みんなが眠りについた頃、度々仕事に駆り出されてしまう古泉少年が、ほんの少しの間でもぐっすりと眠ることができるように。 祈るように願う。 神様、明日こそは涼宮嬢と古泉少年に穏やかな眠りのあらんことを。念のため言っておくが、この場合の神様も、涼宮嬢のことではなくて八百万の神のことである。 ……ああ、太股が辛い。 古泉一樹は、誠実な少年である、と私は思う。 組織の一員としてのお役目を果たしながら、ときにキョン氏に助言を送り、長門女史に手助けしてもらい、みくる殿の様子を観察し、鶴谷様に協力を仰ぐ。同級生らに造られた思い出話を騙り、教師らに嘘の姉のことを語る。 そんなことは涼宮嬢の前でだけでいいのに、私生活全てにおいてそのキャラを律儀に守り続けるのだ。 ―――涼宮さんの前で普段の癖が出てしまっては困りますので。 それが理由だと言う。 初めて会ったときからそうだ。ファーストコンタクトのとき、彼は、その爽やかな声で私を姉さん、と呼んだ。姉さん、今日から僕らは一緒暮らす家族です、と。 血縁関係なんぞこれっぽっちもない女のことを突然姉と慕わない、といけないことに、何の疑問も持ちませんよ、という風な顔で。 もしかしたら、心の中ではクソ女、とか呼ばれているかもしれないけれど。だけれど、偽物の弟は、いつだって優しい声で私を呼んだから。 意地を張っていた私がバカみたいになって、いつしか絆されてしまうまで、そう時間はかからなかった。 ―――いっちゃん、お夕飯は何がいいかしら。 私の太股で未だ昏々と眠る偽物の弟に、出来るだけ優しい声で問うてやる。 太股をくすぐるさらさらの髪を撫でてやれば、少しばかり覚醒したのか、もぞりと頭が動いた。下半身を言いようのないこそばゆさが襲い、ぞわりと鳥肌が立つ。 当初は、苦しいことばかりだった。 いきなり訳の分からない能力を与えられ、訳の分からない別の人間として生きていくことを強要された。 この生活から逃げ出したい、全てを棄てて楽になりたいと思ったときさえあった。 それもこれも、全ては涼宮嬢のせいで。 あの当時は、あの女さえいなければ、と恨んだり呪ったり忙しかった。今となっては笑ってしまうけれども、殺害計画を企てたこともあったっけ。 でも、偽りであっても家族がいたから。 古泉少年がいたから、私は耐えられたのだ。 ―――ねぇ、いっちゃん。そろそろ起きてくれなきゃ、ご飯の支度が出来ないわ。 軽くおでこにデコピンを繰り出し、囁くように告げれば、ゆるゆると瞼を開ける古泉少年。 現状を把握しようとしているのか、ぱちぱちと瞬きを繰り返すその様は、普段な表情からは想像もつかないほど幼く見える。 おはよう、私の偽物の弟よ。 君は何も知らなくていいんだ。私が、どれだけ君に感謝しているか、どれだけ君のことを大切に思っているか、どれだけ君のことを好きか、知らなくていい。 君が本当の弟だったら……。嗚呼、どんなに良かっただろう。 そう思っていることなんて、これっぽっちも知らなくていいんだ。 ドールハウスでおやすみ
|