「菊ちゃん!」
「あぁ、はい。何ですか姉上」
「にーにのところがイヴァンさんに攻められてる、って本当ですかっ!」




ここのところ、近隣の国の雲行きが怪しかった。
アーサーに負けたことで耀が弱っていることは知っていた。そんな耀が、イヴァンに狙われ始めたことも、よく知っていた。
だが、どうして良いか分からなかったので、少し様子を見ていたのだ。しかし、そのことで上司にくどくどと文句を言われ、疲れて帰って来るなり、姉のこの台詞だ。




「えぇ、まぁ本当のことですが………」
「そんな……」




菊が肯定すると、姉のはしゅんと項垂れた。




―――は、育て親であり兄のような存在でもある耀が好きだ。




誰の目から見ても分かりやすいその好意は、時に菊を苛立たせる。




「大丈夫ですよ。明日から、私が耀さんの護衛に着くことになりましたし」




本当のことだった。今日、上司は菊に「ここらで恩を売っておけ」と告げてきた。
ほんの一瞬、のことがよぎり、少しばかり気が滅入ったものの、さすがに善処するわけにもいかず、しぶしぶ頷いたのだ。
だが、そんな菊の心情もつゆ知らず、姉は「菊ちゃんが守ってくれるなら、にーにも安心ね!」と朗らかに笑う。




(嗚呼、いらいらする、)




自分が姉への感情を自覚したのはいつからだっただろう。
昔はもっと純粋だった気がする。歪み始めたのは、他の国と交流せず、ずっと引きこもっていた頃からだろうか。
それとも、自分には姉しかいないのだと、姉には自分しかいないのだと、勘違いし始めた頃からだろうか。




ピンポーン―――。




そんなことを考えていると、玄関のチャイムが鳴らされた。
おや、どちら様でしょうか、と呟き、に自室に戻るよう促し、玄関の扉を開ける。




「やぁ、本田くん」
「……何をしにいらしたんですか」




その先に立っていたのは、マフラーを巻いた威圧感のある男―――イヴァンだった。
睨み付ける菊。




「耀さんのことですか? あそこの土地をさし上げる訳にはいきませんから」
「怖いなぁ。違うよ。僕はね、平和的な解決を提案しに来たんだ」




イヴァンは睨みにも臆することなく、笑顔の仮面を貼り付けたまま、いけしゃあしゃあと言ってのける。




「君のお姉さんの……さんだっけ? 彼女を貰えないかなぁ? くれたら、耀くんからは手を引いてあげるよ」




今日、上司に耀くんを守るように言われたんでしょ?、と付け加えて。




「……っ、上から目線で言う人の提案なんか聞き入れられません!」




「ねぇ、本田くん。僕、知ってるんだよ? 君がお姉さんのことを好きで、耀くんに今すごーく嫉妬してること」




思わず息を飲んだ。




「僕にをくれたら、が二度と耀くんのことなんか思い出せないようにしてあげられるよ?」




知られて、いる。
自分が何より隠していたかった気持ちを、知られている。




「まぁ、本田くんのことも思い出せなってるかもしれないけどね!」




本田くんの気持ちは、それじゃ嫌って思う程度の愛情じゃないでしょ?
畳み掛けるようなイヴァンの問いに、菊は知らず知らずのうちに口内に溜まっていた唾を飲み込んだ。






偽善者を嗤う






(それでも良ひ!)
(彼女が想ゐ人を忘れてくれさへすれば!)
(嗚呼、自分の存在を忘れてられたつて構わなひのだ!)




「無言は肯定と見なしていいのかなぁ」




菊が黙って俯いていると、心中を読んだかのようなタイミングで、イヴァンが姉の部屋に向かって歩いていき、静かに入った。その直後、金切り声のようなの悲鳴が家中の襖をピリピリと震わせる。
その、あまりの叫びに流石の菊もの部屋の前まで走った。
が。




廊下でぴっちりと閉められた障子は、2人の影だけを写し出していた。
重なり合って濃くなる闇色。
荒々しい物音に合わせて混じる2人の陰影。




……足がすくんで、部屋の中に入れなかった。廊下に貼り付けられたように、動けない。
何をされているかは一目瞭然だった。知りたくなかった。想像したくもなかった。




「本田くん。お姉さんが助けて、って言ってるよ?」




面白そうに笑うイヴァン。




を売ったのは弟の君だっていうのにね!」




だから、だからだからだからだから―――。




菊は静かに己の両の手で耳を塞いだ。何も聞かなくて済むように。
最愛の姉の救いを求める鳴き声も、イヴァンの嘲る笑い声も、何も聞かなくて済むように。




ただ、自分の口角が醜く吊り上がり、無意識のうちに笑っていることだけは、薄ぼんやりと自覚していた。