「すみません遅れました!」
その日、岩鳶高校のプールサイドに最後に現れたのは、松岡江だった。
「どうしたの、江ちゃんが遅れるなんて。何かあった? 天方先生に呼び出されたとか?」
いつもは大体、マネージャーである江がプールサイドで部員たちを待っていることの方が多いが、そう言えば今日はまだ姿を見せていなかったなぁと思いながら、部長である橘真琴は尋ねる。
肩で息を切らしているところを見ると、大急ぎで来たらしい。
ぜいぜいと息を整える小豆色のジャージの後輩を見ながら、真琴は残りの3人にプールから上がるよう指示を出した。
「いえ! 今日は、ちょっと紹介したい人がいて、そのことで遅くなりました! この子です!」
「……コウ、もう少し、ゆっくり、走って」
じゃじゃん! と効果音が付きそうなジャスチャーをする江の背後から、息苦しそうに顔を覗かせたのは、岩鳶高校の制服姿の少女だった。
胸元のリボンが赤色なところを見るに、どうやら1年生らしい。
「えっと、そちらさんは?」
「私の中学時代からの友達で、ちゃんと言います!」
江に促され、呼吸を整えた少女が「こんにちは、はじめまして、です」とぺこりと頭を下げた。
無表情のまま、抑揚のない淡々とした喋り方をするその様子はまるで誰かさんを連想させるなぁ、と苦笑いする。
平泳ぎとバタフライをそれぞれ泳いでいた1年生2人がプールから上がったのを目の端に入れ、真琴は挨拶を返す。
「はじめまして。部長の橘真琴です。ちょっと待ってて、まだもう1人いるんだ」
その『連想させる誰かさん』は、未だ優雅に水に漂っている最中なのだが。
「ハルちゃん、いつまで泳いでるの? 江ちゃん来たよ。一旦上がって」
「む」
プールを覗き込めば、泳ぐことと水をこよなく愛する幼馴染み・七瀬遙が半分だけ顔を出した。餌を待つ鯉みたいだと思いながら手を差し出せば、その手を掴んで陸に上がった遥は文句を言う。
「『ちゃん』をつけるな」
「はいはい。いいから、早くね」
みんなもう上がってるよ、と言いながら、急かすように先を歩く。
大好きな水中から出されて不満そうにむくれる遙の視線は、何を見ているか分からない。
「なになに、もしかして部員希望ー?」
「得意な泳ぎはなに?」とはしゃぐのは葉月渚だ。ぺたぺたとプールサイドを歩くと、江の後ろの少女へ物珍しそうに近づく。
その様子を見るに、同学年でもあるものの、それぞれのクラスは違うようである。
「……得意なのは、いぬかきです」
「あのね渚くん、ちゃんは美術部だから」
急に距離を縮められたからか、がびくっとしたように一歩下がった。
それに臆することなく、更に近づく渚。ある意味大物なのかもしれない。
「うちの学校の美術部って、ハルちゃんが勧誘されてたとこ?」
「そう。美術室の前に大っきな油絵が貼ってあるの見たこと無い? あれ描いたのが、何を隠そうちゃんなの!」
「ああ、あれなら見たことがありますよ! あの絵は美しい!」
そんなことを恥ずかしげもなく言うのは、竜ヶ崎怜である。
「……どうもありがとう」
「あんなすばらしい絵を描いた方にお会いできて光栄です! でも、美術部のさんが何故プールに?」
ぶんぶん、力強く握手した両手を上下にシェイクさせながら言う怜に、お礼を告げる。
褒められたのにも関わらず、その表情がほとんど変わることがない。ほんの少しだけ、照れたような表情が垣間見えるだけだ。
「……そもそも、岩鳶高校が貧乏なのがいけないのです」
「え? それどういうこと?」
「あーもう、ちゃんったら……! 私から説明します!」
寡黙な性質なのか、言葉数の少ないを見かねた代弁者・江からの話を聞くに、は美術部内でも一、二を争うほどの腕を持つ、期待のルーキーなのだそうだ。
そんな彼女がしたかったのは、石膏デッサンだったらしい。高校に入学した暁には、念願のダビデ像を描こうと心に決めていたとか。
だがしかし、
「……予算がないから、買えないと言われまして」
サタイヤでも、もういっそ奴隷像でも良いのですが、と言うが、美術に疎い彼らにはそれがどんな像なのか見当もつかない。
唯一、プールから上がってぼんやりしていた遙だけが、首をかしげる。
「石膏のやつ、1つなら美術室にあったような気がするが」
「……首から上のやつしかないんです」
水泳部員募集ポスターの件で美術部に勧誘されたとき、美術室に入ったことがあるのだろう。そのときに石像を見たようだ。
しかし、私は全身を描きたいのです、と言う。
「……そんなとき、コウに言われたんです。実際の男性をデッサンすればいい、と」
そして、水泳部がおすすめだとも言われました、と続けて答えるは、やはりにこりとも笑わない。
皆の視線は、自分の所属している部活を勧めた(=生贄にしようとしている)江へと向く。
「何も水泳部でなくたって……」
「だって他の部活は脱いでいないもの!!」
皆の言葉を代弁するかのように呟いた渚の言葉に、すかさず熱血漢のような答えが返ってくる。
まぁ、確かにそうだ。サッカー部や陸上部や野球部も、筋肉では負けていないだろうが、でもさすがに脱いでいない。
素晴らしい筋肉美を見られるのは水泳部だけです! と豪語する江。多分、この調子で『うちなら筋肉見放題だよ!』とかに言ったのに違いなかった。
「……だめですか」
ちらりと、が真琴を見る。
予算がない。それは、水泳部を設立したときにも、嫌と言うほど言われたことだ。気持ちは分かるだけに、協力してあげたい。
その横で「真琴先輩、私からもお願いします!」と言う江。
「ちゃんに、絵を描かせてあげたいんです!」
土下座しかねん勢いの江を見て、彼女と江の関係は自分と遙の関係に似ているのだと、真琴はふと気付いた。
泳ぐことに夢中で、水以外のものはどこか無気力な遙と、それを支える真琴。
描くことに夢中で、絵以外のものはどこか無気力なと、それを支える江。
「ちゃんも、もっと頭下げて!」
「……うん。もちろん、タダでとは言いません」
これ、差し入れです、と言って開けられたクーラーバッグに詰められていたのは、
「ハーゲンダッツだ!!」
例の高級アイスだった。驚くべきことに、全種類ある。
「ひゃっほーう!」と言いながら、グリーンティとストロベリーとマカデミアナッツを取り出した渚がの方を振り返り、決め顔でこう言った。
「僕の肉体で良ければ、ばりばり描いてくれていいよ!」
「いいのかよ!」
悲鳴のような声を上げて、真琴が叫ぶ。こうして、大事な味方が1人失われた。
「全く、渚は。食べ物に釣られるなんて」
「そういうハルだって取ってるじゃないか!!」
口では渚の行動を非難しながらも、行動は素直だ。ミルククラシック味の蓋をぱこんと開けながら言う遙を恨めしく思いながら、諦めた真琴もクーラーボックスに手を突っ込んだ。
期待のこもった目で見ている江にマンゴーオレンジを渡し、自分はラムレーズンを選ぶ。
「わかったわかった。部員の反対もないみたいだし、いいよ」
「……っ、ありがとう、ございます」
「ありがとうございます真琴先輩! 良かったねちゃん!」
うん、と小さく頷いて。水泳部に囲まれた美術部の少女は、レアチーズケーキのアイスを取り出した。
「……すっごい、楽しみ」
本当に嬉しかったのだろう。恥ずかしそうに俯いてしまう。だから、その下に浮かんだはにかむ表情に気付いたのは、遙だけだった。
「どうしたの、ハルちゃん?」
皆がアイスクリームに夢中になっている中、ぼうっとを見つめたままの遙を、木のスプーンをくわえた渚が怪訝そうに見ていた。
手の中のアイスは充分に柔らかくなっており、それほどまで遙が立ち尽くしていたことを証明している。
「な、なんでもない」
嬉しそうに笑っていたのは一瞬のことだった。何故なら、はさっきまでと同じ感情を伺わせない顔でアイスを頬張っていたからだ。
それでも、またあの笑顔を見れるのではないか、と思うと、何故か彼女から目が離せない。
もやっとした気持ちを、遙は柔らかくなったアイスと共に口の中に押し込んだ。
「と言うか、思ったんですけれど。これだけのハーゲンダッツを買えるのなら、自分で石膏像買えば良かったのでは?」
あれ、言うほどそんなに高いものでもないでしょうに。
みんなにアイスが行き渡ったことを確認し、最後に自身もバニラ味を手にした怜の言葉に、がはっとしたようになる。
「……その発想はなかった」
なかったのかよ。というツッコミは、アイスを食べ終えた遙が不可解な感情を打ち消すようにプールに飛び込んだ音で消えた。
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