胸が重苦しく、眠れない夜だった。こんな夜は、マルコを弔ったときのことを思い出して、気が滅入って来る。 ―――確か、アルミンのやつがホットミルクがいいって言ってたっけ。 そんなことを思い出し、食堂まで行って温めてもらった牛の乳をもらう。一気に飲み干せば、少しだけ気分が楽になった気がした。 「……部屋に戻るか」 日付が変わって、もう2時間以上が経過している。 巨人がいつ出てくるかわからない緊迫した状況下な今、少しでも多くの睡眠時間を取って身体を休めることが第一となって来るのだ。早いところベッドに潜って、目を瞑ろう。 そう思って廊下を戻った先、自室の薄暗い夜の廊下の足元で、もぞりと影が動いた。 「―――っ! こんなところで何やってんだ、お前……!」 「こんばんは、ジャン」 大声を出しそうになりながらも耐えた自分を褒めて欲しい。 部屋の前で体育座りをして、毛玉のついたベージュ色の毛布にくるまっていた少女を見て、ジャン・キルシュタインは息を飲んだ。 「眠れないの」 耳にかかっていた黒髪が一房、はらりと落ちて。 「君とおんなじだよ」 +++ 「……ほらよ」 再び食堂に戻る羽目になるとは思わなかった。 毛布にくるまったままの少女―――を椅子に座らせると、ジャンはもう一度、温めた牛乳を貰いに行く。 隣か、あるいは向かい側に座ろうかとも思ったが、やめた。机に寄りかかったまま、ぶっきらぼうにマグカップを手渡す。 「ありがと。怖い夢を見てさー」 温度をカップ越しに楽しむように掌で転がしながら、少女は言う。 というこの目の前の人間は、ジャンと同じ104期訓練生だ。 その中でも、別段目立つことのない、平凡で至極地味な女。少なくとも、ジャンの評価はそうだった。 なんせ、同じトロスト区出身らしいが、訓練兵になるまでお互いのことは知らなかったのだ。ミカサとアルミンとエレン、あるいはアニとベルトルトとライナーのような仲良し幼馴染み軍団からすると、同郷なのに知らないなんて、と驚くことらしいが、無理もない。 「トロスト区もそこそこ広いし、そういうこともあるだろうよ」とは言ったものの、例えば、アイツがミカサ並の美貌を持つ女だったら俺だって覚えていたさ、という言葉を飲み込んだのは言うまでもなかった。 女。そう、一応は『女』なのだ。 艶っぽさはないし、可愛げはない。それでも、その身体つきは自分とは異なる生物。 ジャンは、知っている。無惨に巨人に喰い殺されるこの世界で、結婚して子を成し、人口を増やすことが美徳とされていることを。そして、それには異性という存在が必要不可欠であり、そう、それは例えば、目の前にいるような―――。 ごくり、喉が鳴る。 野郎の部屋の前に女がいる、ということはあまり好ましくない状況だろうと瞬時に判断し、食堂に連れて来た自分を褒めて欲しい。 「……どんな夢だ」 「巨人が、全匹駆逐された夢」 苛立たしげに人さし指で机を弾くその指は、自分の指とは違って細かった。訓練していることもあって、同年代の少女たちより大分しっかりしているのだろうが、それでも自分の指とは比べものにならない。 「喜ばしいことじゃねぇか」 巨人を駆逐すること。それは、あの死に急ぎ野郎・エレンの夢であり、同時に全人類の夢でもあるはずだ。 「うん。初めは、みんなそう言ってた。壁もなくなって、土地も奪還できて、これで幸せな生活が送れる! って喜んでたさ」 でもね、と急に下がった声のトーンが、彼女の見た悪夢を凄惨さを物語っていた。 ……普段、こんな声で物を言う女ではないのだ。 ジャンの知っているは、いつも明るくて、ふざけているようで、でも優しくかった。 「巨人の正体が、実は人間だったっていうことがいつの間にか大っぴらになって」 そう、影で誰かがこっそりと『って、笑ったとき出るえくぼがかわいいよな』と噂にするような少女であり。 いつでも励まして支えてくれる、お母さんとかお姉さんみたいなタイプだった。 「巨人が人間だったのなら、巨人を駆逐していた調査兵団は、殺人鬼集団じゃないかってことになって」 誰もがその底抜けな笑顔に救われる彼女の、その可愛い笑顔を奪った悪夢。 「……人殺しを許すな、と」 実際は、ただ怖かっただけなのかもしれないけれどさ。 無理やり笑おうとして、でも無理だったのだろう。 にかっ、という張り付けたような笑みが逆に不気味だった。 「リヴァイ兵長も、エルヴィン団長も、エレンも、ミカサも、……みんなみんな処刑されていって」 道化師のような表情のまま喋り続けるその声は震えている。 「ねぇ分かる? ついこの間まで、英雄だと讃えられていた人が、一気に犯罪者にされていく恐怖が」 「巨人―――人だったはずの生物―――を、大量殺戮した凶悪殺人鬼として、処刑されるの」 「アルミンが頑張ってくれて。みんなを助けようとして、懸命に働きかけてくれて、でもダメで」 「兵長も、エレンも、ミカサも、人に殺されるなんて、と言い遺して、次々に殺されて行くの」 それは、それは。 「……そりゃ、怖いな」 本当に怖いものとは一体なんだろうな、とジャンはふと思った。 子どものころは、あまり怖いものがなかった気がする。 家族や友達といった狭いコミュニティで、のびのびと育ったからか、お化けにおびえたり、夜の風音に慄いたり、そういう経験はなかった。だから、人生で一番怖かったのは、多分おそらく巨人に遭遇したあの瞬間だ。 「ねぇなんでだろうね? 巨人に殺されるのなら分かるよ。私たちは、調査兵団の一員なんだから。それが使命なんだから。でも、なんで人間に殺されなくちゃいけないんだろうね?」 「バカ、落ち着け、」 その恐ろしかった巨人の正体は、あろうことか自分たちの仲間だった。辛い訓練を共に乗り越えた、同期生だった。 だから、ジャンにはよく分からない。 自分が本当に恐れているものは、巨人なのだろうか。 巨人だということを隠して自分たちと一緒にいた友に対して、怒りのあまり畏れているだけじゃないのか。 本当に怖いのは、友だった者たちを駆逐しなければならない自分たち兵団じゃないのか。 そして、一度は仲良くしていた存在を駆逐しなければならないこの世界が最も恐いものなのではないだろうか。 ぶるぶると震える小さな手が視界に入る。 こんな残酷な世界でなかったら、きっともっと柔らかくてふくふくとしていたであろう彼女の手が、視界に入る。 家畜に餌をやったり、赤子を撫でたり、時代が時代ならそういう役目をするはずだったその手は、今となってはもう、巨人となった旧友らを殺すためにあるのだ。 手に持ったままの、乳白色の液体の入ったコップが揺れているのを、ジャンはぼぅっと見ていた。 その震えを生む感情は、怒りか恐れか、それとも悔しさなのか。目の前のこの女は、果たしてちゃんとした正解が導けるのだろうか。 「ああなるんだったら、巨人に喰われてた方がまだ良かったなぁ!」 ドン、と叩いたテーブルの上で、丸めて置いていた毛布が軽く跳ねた。 急に大声を出したことが自分でもびっくりしたようで、は落ち着きなく立ったり座ったりを繰り返している。 「お、落ち着けっつってんだろ」 「怖い……怖いよジャン……」 大きく身震いをひとつすると、するりと寄って来てジャンの肩口に額を押し付けた。そしてまた、小さく震える。 「私たちがしてきたことは無駄だったの? 何の意味もなかったの?」 そんなわけあるかよ、と思ったその言葉は、知らず知らずのうちに声に出ていた。 自分で言い聞かせているだけかもしれない。でも、たくさんの犠牲者を出しながら懸命に駆逐し研究した巨人を前に、何の成果も上げられていないだなんて思いたくなかった。 「そうだよね。無駄なんかじゃないよね。……ジャンは優しいね」 肩に顔を押し付けたまま、はもごもごと喋る。 シャツが濡れる感触がした。泣いているのだと気付いて、ジャンははっとした。 テーブルの上の毛布を拾い上げると、ぱさりと頭からかけてやる。 「お前のその……夢の話だけどよ」 「ん?」 「俺は、どうなってたんだ?」 こんなときにも、自分のことしか考えてないのかと責められるならそれでいい。それでも気になったのは、彼女の口から一切自分のことが出て来なかったからだ。 エレンもミカサもアルミンも、名前が出て来た。 自分の名前だけ出てこないこと、自分の部屋の前で丸まっていたこと、そこに何の因果関係があるのか、知らないままでいるのは逆に嫌だった。 「……無期懲役だった」 顔をあげぬまま、呻くように絞り出すように言われた言葉は、ひどく冷え冷えとしていた。 「死んで楽になんかさせるもんか、って。牢獄に閉じ込められたまま一生を終えろ、って言われるの」 「なるほどな」 「公に開かれた裁判の場で、『せっかく手に入った広く美しい世界は貴様には似合わない』って言われたの」 世間様は残忍だね、と毛布を被った少女は言う。 そのとき思ったのは、夢の中でまで俺はミカサと一緒になれないのか、ではなく。 「……じゃあ、なんでお前が泣いてんだよ」 薄暗い思いを抱いたのはお前じゃない。 期待を裏切られて絶望したのもお前じゃない。 話を聞くに、おそらく夢の中のは無事だったのだろう。殺されることもなく、ひっそりと、穏やかな余生を再出発するのだ。 だから、今こうして彼女が泣いているのは、夢の中のジャンに対してなのに違いなかった。 「せっかく壁の外の世界を知ることが出来たのに、それを見れないまま死んでいくジャンが可哀想だなぁって思ったの」 空は広かったし、夕焼けは綺麗だった。見たこともない植物が生えていたし、見たこともない生き物がいた。大きな水たまりのような、『海』というものもあった。それでも、それを一緒に見て感動してくれる人はいなかった。 ただの夢と笑われるかもしれない。でも、あの景色がもし本物ならば、それを見れずに薄暗い牢獄に閉じ込められたままの男はなんて可哀想なのだろう、と思ったの。 肩にかかっていた重さは、いつの間にか離れていた。 花嫁のベールのように被った毛布をかき分け、ジャンの目を見て真摯にそう語る少女の瞳は涙で潤んでいる。 「そうしたら目が覚めて。ものすごく君に会いたくなったのよ。……ねぇジャン」 こんな怖ろしい夜に、そんな熱っぽい瞳で見るな。 こんな怖ろしい夜に、耳元で囁くように吐息混じりで喋るな。 「私はね、夢で見たあの景色を、いつか君と一緒に見たいなと思ったのよ」 ああ、これはもう告白と何が違うのか。 涙の流れた痕をなぞるように、つ、と頬に這わせたジャンの指は、先程の彼女の手とは比べ物にならないほど震えていた。 A級戦犯 (永久千晩) 多分、この後、メチャメチャセックスしてる。 |