「……っ!」
声にならない自分の悲鳴で目が覚めた。
『バチカン市国』こと・ヴァルガスは、小さく身体を起こす。薄いキャミソールの下、背中に伝う生温い汗の感触が気持ち悪くて、泣きそうになった。
目の前に広がっている世界は、大きくて柔らかいソファと、いつの間にやら掛けられたふわふわの毛布だけ。拳は、爪が食い込むくらいきつく握り締められている。
クリーム色のカーテンから入り込んでくる緩やかな昼の光は、目に痛いほど眩しい。俯いている彼女の身体は、小さく震えていた。
「ちぎー……」
上の兄の口癖を真似てわずかに声を漏らせば、ちりちりと喉が痛んだ。かすれ気味なのは風邪でも引いたのかもしれない。
―――いやな夢を見た、ような気がする。
思い出せなかったのが不幸中の幸いだろうか。眉根を寄せつつかぶりを振って、気分を入れ替える。
と。は、いつの間にか一緒にシエスタをしていたはずの下の兄の姿が見当たらないことに気づいた。
フェリ兄ぃ? と完全に覚醒しきっていない掠れた声で甘く兄の名を呼ぶ。呼ばれたフェリシアーノはすぐさま気づき、ふと顔を上げた。どうやら、テーブルに移動したらしい。
「あ、起きたんだ? おはよ、」
しかし、優しく微笑むと、何やら再び作業を始めてしまう。
―――その作業は、どう見ても荷造りだった。
は、そんなフェリの態度にふぅっと溜息を吐き、じっとフェリを見つめる。
「ん? なぁに?」
ぷいっと俯いたの頭頂部のくるんが、しおしおと沈んだことに気付いてはいたフェリだったが、見なかったことにした。アントーニョ曰く「天使みたいやんなぁ」、フランシスに言わせると「俺の女神様さ!」、勇洙からは「お人形さんみたいなんだぜ!」などと形容される己の妹だが、怒ると半端なく怖いということをフェリは嫌というほど知っているので、こういうときは、ただ素直に返事をするに限る。
「おにいちゃん、また友達のところに行くの?」
「菊とルートのこと? うん、行くよー。ルートがね、たまには菊のところで訓練しよう、って言ったから」
だから、明日には日本に行かなきゃならないんだー、と語る兄の頬が緩みきっていることに気付かないほどは鈍くない。そして正反対にフェリは、妹が怒り爆発寸前なことに気付くほど鋭くない。
「ず、」
「ず?」
「ず、るーいっ!」
そう言って、はフェリに向かって、いつも持ち歩いている催涙スプレーを浴びせた。
「ひ、ぎゃあああああ! 痛い、痛いぃ〜」
両目を押さえ、悲鳴を上げてのた打ち回るしかない。ちなみに、フランチェスカが催涙スプレーを持ち歩いているのは、バッシュに「何かあったら困るのだ。身の危険が迫ったらこれを使え。いつも持っていると良いのである」とアドバイスされたからに他ならない。この助言のせいで、すでにヘラクレスとアルフレッドが尊い犠牲にあっているのだが、これはまた別の話である。
「リヒちゃんは、いつもバッシュさんと一緒にいるもん! フェリ兄ぃは、ここ最近お友達のところばっかりだし、ロヴィ兄ぃなんか、いつもトーニョ兄ちゃんとトマトのことばっかり。あたしなんて、どーでもいいんでしょ!」
リヒちゃん、ことリヒテンシュタインと、フランチェスカは仲が良い。リヒテンの兄代わりであるバッシュが警備を固めているからなのか、可愛いもの好きなリヒテンがフランチェスカの描く絵に心打たれたからなのかは分からないが、文通までしている仲である。
それだけではない。基本、自国から出る機会のないは他の国とも文通しているのだ。数少ない情報を得る手段でもあるためか、その文通仲間は幅広く、ギルベルトとはメル友だし、耀からは達筆な筆文字が踊る手紙が届くし、ベールヴァルドやティノからは月一でピーターの写真つきの手紙が来る。
先日も、こっそり覗きこんだ手紙がアーサー宛だったんよ、私には妖精さんが見えなくて悲しい〜とか書いとったんやー、とアントーニョが嘆いていた。気の強いイタリア娘は、大英帝国の呪いをも恐れないらしい(だから、催涙スプレーを最愛の兄に掛けるという芸当も、軽くやってのける)。
「もう知らないもん! Che palle! おにいちゃんなんて、カルボナーラが鼻に詰まって苦しめばいいのよ!」
「え、何それ怖い!」
暴言とスラングを放ちながら、走り去る。その駆けて行った跡には涙が残されていた。
それは、目薬によって作られた偽物の涙だったが、フェリは全くもって気付かない。
「兄ちゃんはともかく、俺はちゃんとのこと大事に想ってるよ! 泣かないでよー。出てきてってばー」
部屋に閉じこもってしまった妹を必死に呼ぶが、すっかりへそを曲げた彼女は自室に鍵をかけたまま、結局次の日になっても部屋から出てくる気配を見せなかったのだった。
++++
さて翌日。
あのまま部屋から出てこなかった妹をフェリは少しばかり待っていたが、案の定睡魔に負け、寝てしまった。
出かけるから、と珍しく早起きしたのは良いものの、のことが気になって仕方がない。こっそりと部屋を覗こうと思い、ドアノブに手をかければ、なんの引っ掛かりもなく開いてしまった。
恐る恐る中を見れば、の姿は、見当たらない。
あれ? と不思議には思ったものの、また怒られるのも嫌だと思い、深く考えないことにした。
―――まぁ、そのときに深く考えていれば、それぞれにまた違った結末が待っていたのかもしれないが。
結局、フェリシアーノが日本に着いたのは、予定時刻に大分遅れたころだった。身支度も荷造りも昨晩のうちにしっかりしたし、早起きまでしたのに「よしっ、景気づけにパスタを作ろう!」と頑張ってしまったのが原因である。
「全く。こんなに遅くなるんだったら、俺がイタリアに寄ってから連れてくるべきだったか」
待ち合わせ場所である、菊の家の前にて。
フェリは、女の子をナンパしながら道でふらふらしていたところを、探しに出ていたルートヴィッヒ(とっくに日本に着いていた)に発見された。そのまま首根っこを掴まれて引っ張られ、菊の家まで連れて行かれる。
その妙な格好のままで庭まで出迎えてくれた菊と対面したときには、すでにお昼を回っていた。
「きーくー! 元気だったー?」
フェリが、ぷらーんと、猫のようにぶら下げられたまま元気よく手を振ると、道行く人がばっと菊の方を向いた。視線を逸らしつつ、じりじりと数歩ずつ後退しながら、私はこの人とは他人です、というオーラを出す菊。
「は、はい。それにしてもフェリシアーノくんの荷物は大きいですね……」
仕方なく、慌てて玄関に押し込む形で2人を招き入れ、会話を進める。
「どうせお前のことだから、くだらないものを持ってきているんじゃないのか? パスタとか、パスタ鍋とかな」
「ヴェー! 酷いよルート! 俺だって、いつもいつもパスタのことばっかり考えてるわけじゃないんだよ! このカバンには、白旗とピッツァとトマトが入って……あれー、二人で顔を見合わせて、どうしたの?」
これまでの行動からこうなる展開はすでに読めていたので、何も言えない二人だった。上り框に、しーん……とした空気が流れる。
「い、いえ何でもないですよ。あぁそうだ。トマトが痛むといけませんから、冷蔵庫に入れておきましょう。フェリシアーノくん、早くトマトを貸して下さい」
わかったー、とフェリがカバンに手を伸ばしたそのとき。
―――カバンのチャックが、ジジジ……と音を立てて勝手に下がり出した。
「え、えぇぇぇぇ!?」
恐怖と驚きで三人が固まっていると、
「えっへへ! おにいちゃん驚いた? 身体が小さくて良かったーって初めて思った! ……あれ?」
中から出てきたのは、昨日から姿の見えなかっただった。就寝時以外は着ているフリルのたっぷりついたゴシック調のブラウスにふわふわしたスカート、そしてポンポンのついた白いケープを羽織っている。
真っ先に氷状態から溶けたルートが額に手を当てて、呆れたように大きく息を吐いた。その次に、菊が怪訝な顔でフェリシアーノと鞄から飛び出してきた少女とを交互に見比べる。
最後に、ようやく事態を把握したフェリが、慌てたように叫んだ。
「なななんでがバッグに入ってるのー? はっ、俺の荷物はー!?」
「え? おにいちゃんにこっそりついていこうと思って。で、私が入るのに邪魔だった大量のピッツァとトマトは、夜中のうちに家の台所に置いてきたよ?」
だって、誰もいらないでしょ? と、ルートに向かって小首をかしげる。トマトとピッツァ(しかも大量)をいらないものとしながらも、白旗は必要だ、と判断したのがなんともイタリア人らしい。
「まぁ、な……。それにしても、久しぶりだな」
「お久しぶりルート! おにいちゃんがいつもお世話になっててごめんねー」
ハグしてハグー! と言いながら鞄からジャンピングして来たをルートはしっかり受け止めた(※ムキムキだから出来ることです、良い子は真似してはいけません)。そのまま軽くハグしてやる。
「ところで、こちらの方は?」
「は、初めまして! 日本国こと本田菊と申します」
厚い胸筋に挟まれたが問えば、間髪いれずに菊が答える。若干警戒しているのは、どう接すれば良いのか考えているからだろうか。
「あぁ! 名前だけ知ってるよ。耀が『我の弟アル』って手紙で書いてたー。初めまして、フェリ兄ぃの妹のです。小さいですが、結構おばあちゃまです」
「あぁ、妹さんですか。確かに似ていらっしゃいますね。ですが、王さんは私の兄ではありません。あと若く見えますが、うんと爺さんです」
え? そうなの? という疑問符は、耀は兄じゃないと否定したことに対してと、はたまた意外に爺さんだということに対してのどちらなのか、定かでない。
「もー! っていうか、いっぱい貯金あるじゃん! あれを旅費にすれば良かったのにー」
プンスカと湯気を出して文句を言うフェリに対して、
「嫌よ。貯金するのは趣味であって、使うこと自体は趣味じゃないもの」
が返したのは、なんとも辛辣な一言だった。
「いいじゃないのよー。私はおにいちゃんと一緒にいたかったのっ」
頬っぺたと膨らまして、拗ねたように可愛らしく言うに、そういえば昨日もそんなことで喚いてたね、と頭を撫でるフェリ。
いつもはルートに撫でられてばかりの彼ではあるが、妹の前ではちゃんとしているらしい。
珍しく見せる頼りがいのある姿に驚くばかりの二人に、フェリは何故か誇らしげである。
「は、普通の国じゃないんだ……。国だけど、普通の国じゃない。だから、政治も外交もないんだよ。警察も自衛する人もいないから、普段は俺や兄ちゃんが守ってる。でも、俺たちじゃ頼りないからって、バッシュも手伝ってくれてるけどね」
だけど大事な大事な俺の妹には変わりないんだー、誰にもあげないよ? と朗らかに笑い、をぎゅっと抱きしめる。が、その笑みが何処となく黒いように感じるのは気のせいだろうか?
「くーるーしーい! 離してよぅ!」
だがしかし、バタバタと暴れ出したの踵が股間に当たったフェリは、力尽きたように倒れた。恰好良く決めたつもりだっただけに、なんとも呆気ない終わりだった。
「えっと……」
居間に力なく横たわるその気持ちは、男ならば誰にでも理解できる痛みなだけに同情の念を禁じえない。
しかし、「おにいちゃんはほっといていいよー。ご飯にしよー」という呑気なに、菊もルートも一も二もなく賛成した。
二人とも、すでに学んだのだ。「この娘はいろいろと恐ろしい」ということを。
++++
「ゴチソーサマでしたっ」
メニューは、菊が前日から煮込んでくれていたというとろとろの煮豚と煮玉子をメインに、玉ねぎの和風スープと水菜と筍の混ぜ込みご飯、そして漬物。先に食べ始めようとしたとき、フェリが匂いに釣られて目を覚ましたので、喧嘩になることもなかった。
美味しい食事に舌鼓を打った後、片付けを手伝おうとしたルートを「お客様ですから」と押さえて台所に向かった菊は、居間から聞こえてくる会話を耳にして思わず頬を緩める。どうやら、がボールペン二本で箸の使い方の練習をしているようだ。指南役はルートらしい。
そういえば、彼女は食事中、慣れない箸に奮闘していた。途中でフォークも出してはみたが、「これがいいの!」と断じて譲らなかった。
家で、必死で箸使いを練習した(とギルベルトのブログに書いてあった)ルートと違って、未だに箸が苦手だというフェリのために彼専用のフォークを用意していた菊だったが、今度はさん用のも買っておきましょうか、などとひとりごちる。
「きーくー。聞いてよー、ルートがもう訓練始めるんだってー!」
背後から抱きついてきたフェリの行動にはもう慣れっこだった。こうなると予想済みの菊は、しゅたっと華麗にかわす。台布巾を濯いで片づけを最後にすると、割烹着を脱いで居間に戻った。
スルーされたことを気にとめることもなく、その後をひな鳥のようについて回りながら「ご飯の後はシエスタだよねー?」と同意を求めるフェリの言葉は、ルートの「さて、訓練を始めるぞ!」という怒声のような野太い声によってかき消された。
「いいのか? 今のんびりしてもいいが、その分、後で訓練量を倍にするぞ?」
それは困る。ただでさえキツイ訓練なのだ、それを倍もこなせるものだろうか、いや無理に決まっている(反語)。しぶしぶと言った感じで、大人しく動きやすい服装に着替え始める。
と。
「どうせだからもやろうよー」
「はい? 今何と?」
余計なことを言ってくれたな、と兄を睨むだったが、フェリは素知らぬ顔。どうやら、さっきの蹴りでご立腹らしい。
「そうだな。もたまには訓練する必要があるかもしれんな」
「えー、ルートまでそんなこというのね……」
あからさまに不満げなものの、彼を怒らせると面倒なことになるのが分かっているので、渋々返事を返す。が、返事が小さい! と檄を飛ばされた。
「返事は大きく、はっきりと!」
「Ja!」
見事なまでにハモる返事。びしっと決めた敬礼も、三人綺麗に揃う。
……が、やる気のなさも揃っていた。訓練を始めて数十分後、すでにルートの後ろには誰もいない。
その事態に気づいたルートが慌てて辺りを見回すと、運が良いのか悪いのかナイスタイミングでOLさんをナンパしているフェリの姿が目に入った。
「っ! お前ってやつは、何をしているんだ!」
「ヴェ、ヴェーっ!」
女の人の後ろに隠れようとしたが、当然ながらあっと言う間に捕まってしまう。そんなヘタレな様子を、少し離れた植え込みの影から隠れて見ていた二つの目があった。だ。
ルートヴィッヒに見つからないようにしながら、じりじりと移動していたのである。
(おにいちゃんには悪いけど犠牲になってもらうわ! 私は今のうちにルートの魔の手から逃げさせていただきます!)
そんなことを考えながら、小さくガッツポーズする。小さい頃にやったかくれんぼでは、いつも最後まで残っていた方だ。迷わなければ、何とか遠くまで逃げ切れるだろう。きょろきょろと逃げ道を探して首を動かす。
その瞬間、ぐいっと腕を掴まれて近くの茂みに引っ張られた。
「だ、大丈夫ですか?」
「菊ちゃん!」
を助けてくれたのは、菊だった。肩で息をしているところをみると、菊もいっぱいいっぱいだったらしい。自分だけが辛かったのではないと知り、ちょっとほっとする。
「ルートさんは訓練に余念がないですからね、老体には辛くて辛くて。疲れてしまうので、たまにこうやって隙を見て逃げているんですよ。……フェリシアーノくんには悪いですが」
「あー、大丈夫だよ。おにいちゃんは甘やかすとロクなことにならないから」
たはは、と苦笑するに留めておく。充分、貴女も甘やかされていますよと心の中では思うものの、言わぬが花である。
「ところでここは? 何処なのー?」
茂みの向こう側には、石畳と長い階段が続いていた。烏が頭上を回りながら飛んでいる。
「神社の境内の途中です。神様がいるとされているところですよ」
日本には八百万の神様がいるとされていましてね、信仰に厚い部分があるんですよ、と菊が言うと、フランチェスカはパチンと手を叩いて頷いた。
「分かった! うちの小さいバージョンね! ……そうか。なら、あれはジャパニーズゴッドなのかしら」
「? 何か言いました?」
なんでもないよーと顔の前で軽く手を振ってごまかすが、実はフランチェスカには妖怪たちの姿が見えていたのだった。そこかしこに河童や座敷童子、神様たちがおり、鳥居の傍や階段に腰かけてながら、見知らぬ彼女のことを首をかしげて見守っている。
以前、エリザベータに連れられてイギリスに遊びに行った際には妖精やユニコーンが見えなかったことを考えると、日本の神とは波長があったのかもしれない。
先程から申し訳程度に吹いていた風がぴたりと止んだ。草が揺れ動かなくなったため、中にいる二人が少しでも動くと見つかる可能性が高くなった。息を殺して、静かに気配を消す。
「暑くないですか?」
耳元で、小さな声で囁くように尋ねる。の恰好が訓練には向いていないのは明らかだ。
こんな、ビスクドールのような服装で自由に動き回れる筈がない。しかし、服を持ってきていないので着替えることは出来なかったのだ(菊の服を貸すことも考えたが、あちこちサイズが合わなかった)。
「えー? 普段から、上司に『女の子が肌を見せるなんてはしたない!』って言われてるからだいじょぶー」
国の決まりでね、薄着はいけないのよ。半ズボンとかタンクトップもいけないのだと言う。
「うちも確かに、ルートさんやフェリシアーノくんのところに比べれば、露出が多い服ははしたないと認識されがちですが、そこまでではないですね」
「上司がみーんな男の人で、住んでる人も女の人が少ないからかなー。神様の面前なのになんて恰好なんだ! って思うのかも。そういえば、東洋の人はうちの警備さんの服装チェックにあまり引っかからないや」
こっちでは寝るとき裸にならないんですってローデリヒさんに聞いたよー、と笑う。その笑顔と科白に、一瞬のあられもない姿を思い浮かべてしまう菊だったが、慌てて首を振ってそのような妄想を打ち消す。
「?」
「いえ、爺は煩悩が……げふんげふんっ!」
「大丈夫? 風邪引いた?」
咳をしてごまかしたが、余計に心配されるだけの結果に終わった。背中まで優しくさすってくれる彼女にまさか正直に言えるわけもなく、心の中で必死に土下座をする菊。
「私のがうつっちゃったのかな……。私もね、昨日の朝、嫌な夢を見たような気がして、喉が痛かったの。でも思い出せなくて、おにいちゃんに当たっちゃったんだ。それでここまで着いてきちゃった、ってわけ」
「嫌な夢ですか。わが国では、夢は誰かに話せば実現しないと言われています。どんな夢かは存じませんが、もう安心ですよ」
私に話してくれましたからね、と微笑む菊。年の功とはこのことだろうか、頼りになりそうなその表情に、はひどく安心感を覚える。
そんな折、遠くから怒声と泣き声が足音と交互に聞こえてきた。ルートとフェリだ。ルートなど、「あの二人は何処に行った!?」と今にも取ってかかりそうな剣幕である。
「ありがとう菊ちゃん! うふふ、でも悪夢を見たのも、おにいちゃんと喧嘩してここまで着いてきたのも、結果的には良かったなぁ」
「? どうしてです?」
「だって、菊ちゃんに逢えたんだもの!」
そう言うと、茂みから抜け出たは菊にぎゅっと抱きついて、唇にキスをしたのだった。
ちゅ、というリップ音を立てて離れれば、耳まで真っ赤になった菊がいる。ボンッという音を立てて、今にも倒れそうになりながら茂みから転がり出た彼は、頭から沸騰したお湯のような蒸気まで出していた。
「ししししししし神前ですよ!」
「えー? 神様の前だとダメなの?」
ダメではないですがむしろ嬉しいですもっとやれ、と壊れたラジオのように呟く菊。ネジがぶっ飛んでしまったために、どうやらオタクの本性が見え隠れし出しているようだ。
そのことに気付いたが、「いいじゃない。見せつけてあげるくらいがちょうどいいんだよ?」と、未だ抱きついたままの状態で、ここぞとばかりに追い打ちをかける。
ルートとフェリは茫然としていたが、やがて事態を把握したらしい。「えぇぇぇぇぇぇ!?」と絶叫を上げた。
後日聞いたところによると、その絶叫はなんと隣町の山田さん(仮)の家まで響き渡ったといい、絶叫に合わせて飼い犬が遠吠えを始めただの、赤ちゃんが起きてしまっただの、苦情が相次いだとの説もあったが定かではない。
そんな絶叫を気にも留めず、が妖怪たちの方をちらりと窺ってやれば、菊同様に赤くなった顔をしていた。
両のまなこを、手で覆い隠して、必死で見ないふりをしている。……指の隙間から覗き見ているのは明らかだったが。
「それに、みんなに誓ってるみたいでいいじゃない、ね!」
誓いのキッスをしてみない?
(うわぁんルートぉぉ!)(な、なんだ?)(ヴェ、菊に俺の捕られちゃったよぉぉ!)(私はフェリ兄ぃのものじゃないもん!)(どちらかと言えば、私が捕られた側な気がしますが……)
*ちなみに*
バチカン市国とは!
イタリアにあるローマ教皇庁によって統治されるカトリック教会と東方典礼カトリック教会の中心地。一切の軍事力は保持していない。警備などはスイスの市国警備員とイタリアの警察が行っている。
イタリアとの国境の管理や検疫は行われていない。
バチカンに定住している人々は、カトリック教会の聖職者国家という性格上男性がほとんどである。わずかな女性たちが職員として教皇庁で働くために二つの女子修道会が支部を置いている。
聖地であるため、服装規定がある。特に女性は、観光客であっても、ノースリーブの服なら上からなにかを羽織る、半ズボン禁止などが求められる。
国家予算はカトリック信徒からの募金、切手の販売、バチカン美術館の入場料収入、出版物の販売などのみ。
1981年、ヨハネ・パウロ2世が襲撃された事件以来、教皇が公の場に出て行く時、スイス人衛兵たちは催涙スプレーを常時携行するようになったという。
と、こんな国なので、あんな女の子の設定になりました。
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