「奥村くんすごいねー! また学年1位だよー!」


7月×日の12:30。正十字学園の職員室前。
昼食もそこそこに、職員室前に貼られた定期テストの結果一覧を見て来ていた奥村雪男は、ついうっかり女の子たちに囲まれていた。
きゃいきゃいとした黄色い声や、化粧品や香水の香りで吐きそうになるのを堪えて、雪男はにこやかに笑う。



「奨学生なので、学校の見本として頑張らないといけないですから」



そう言ってやれば、ひときわ高い悲鳴が上がった。単純な生き物だ。
女という生き物は、頭で恋をするのだという話をどこかで聞いたような気がする。自分には無い才能を持っている男、自分よりも勝っている男に恋をするのだそうだ。それが、十月と十日もの長い間、自分の胎内で、子どもを育む女性の特権なのだという。
それは、出来るだけ優れた遺伝子を掛け合わせたい、という女性の本能なのだろうか。



「まーたさんが2位だねー」
「ホントだ。さん、休み時間もずっと本読んでるもんねぇ」
「そうそう。私たちが話しかけても反応薄いしねー」



その反面、自分よりもすぐれた同性には手厳しいものである。
取り巻きーズ(と命名した)の言葉には、どこか棘があった。



「雪男くんとは違って、真面目なガリ勉ちゃんって感じじゃない?」
「絶対、彼氏とかいなそうだよね! 恋愛もしたことないっぽいし〜」
「ねー。絶対キスとかしたことないと思うー」



『奥村雪男』と書かれた横に並んでいる学年2位の生徒の名前を見る。

雪男と同じクラスの女子生徒だ。大人しくて真面目で、感情を露わにさせることの少ない聡明な少女。国語の授業中に教師から指名され、夏目漱石の「こころ」をすらすらと淀みなく音読をする彼女の綺麗な横顔が、雪男の脳裏にまざまざと蘇る。
地味という印象をもたれるのは、彼女が今時の女子高生のように化粧をしたりおしゃれをしたりしないからなのか。それとも、三つ編みという髪型が委員長的なイメージを抱かせるからなのか。
どちらにせよ、それは本当の彼女の魅力ではないのだけれども。



「……そんなこと、ないかもしれませんよ」



タイミングが良いのか悪いのか。職員室の扉を開き、そこから丁度出て来たのは噂の主だった。
意地悪く、本人にわざと聞こえるように噂話をする取り巻きーズの声によってかき消されてしまった小さな呟きは届かない。
嫌みをものともせず、廊下を楚々と歩く彼女。その、制服の下に隠された柔らかな身体や、普段はスカートで見えない太ももの艶めかしさを思い出して、雪男は口内に溜まった唾を嚥下した。
ポケットの中のケータイを取り出す。誰からも見えないように保存BOXを開くと、あらかじめ入力してあったメールの本文を確認もせずに送信ボタンを押した。



『 TO:
Sub:今夜20:00、旧男子寮 』

―――男という生き物は、下半身で恋をするのだ。




+++




「さすがは双子、奥村くんって眼鏡外すとお兄さんと似てるんですね」



同日、21:10。正十字学園敷地内、旧男子寮の一室で。
頭上から降ってきた女の子の声に、うつらうつらしていた雪男の脳が覚醒した。
気付けば、自分の腕に頭を乗せてまどろんでいたはずの体重がいつのまにかなくなっており、真横のシーツはすっかり冷たくなっていた。真夏の蒸し暑い夜だとはいえ、掛け布団も無しに素っ裸で横になっていた自分の身体も冷え切っている。



「そうですか?」



別に、腕枕をするつもりはなかったのだが。
単に、1人用のベッドに2人で寝ることは至難の技だっただけである。小さい頃は、養父と双子と3人で仲良く1つのベッドで寝たこともあったが、立派に成長した今の自分は大柄な部類に入る。お昼休みにメールした相手―――と、協議した結果がこうだ。
視力はかなり悪い方だが、それでも顔に射す人影から、彼女が雪男の腰辺りに座り込み、顔を覗き込むようにしているのは分かった。誘っているわけでなく、天然でこれをやっているのだから性質が悪い。
枕元に無造作に投げられていた眼鏡を手探りで探す。ようやく見つけた眼鏡をかければ、それまでぶれていた世界が、途端にはっきりした。
視界に映る女の子の姿も、ようやくクリアになる。



「えー、自覚ないんですか」



だから、彼女が目を細めてうっすらと笑ったのも見えた。
普段はゆるく結われている三つ編みが解かれて、何も着ていないままの胸元でふわふわと揺れるのも見えた。



「ないですね」



また暗闇の中でヘアゴムを探すという作業に勤しまねばならないらしい。三つ編みを解いた半刻ほど前の己の愚業を責める。
ここは旧男子寮、しかも現在は奥村兄弟2人でしか利用していないのだ。いくらここが、六〇二号室から大分離れており、普段は全く使用していない部屋だとはいえ、偶然入った兄がヘアゴムが落ちているのを発見したら……。可能性は低いが、疑問を抱くかもしれない。
修行と称して使い魔のクロと外出している燐が帰ってくる前に、彼女を寮まで送って、洗濯機を回して、掃除をして、探し物をして、換気して……。ああ、めんどくさい。
そんなことを考えながら、くるんとカールする毛先に指を絡めてやれば、くすぐったそうに笑う彼女。教室では見せないその朗らかな表情に、邪な気持ちがむくむくと大きくなる。



「あ、さん。ちょっとそのままで」



腰から立ち上がろうとしたに声をかける。



「?」
「すみませんが、もう1ラウンドお付き合い願えませんか。やってみたいことがあるんですけど」



怪訝そうな顔で首をかしげる彼女に、袋に入った避妊具を渡す。



「……騎乗位。一度やってみたかったんですよね」




+++




初めて彼女と話をしたのは、2か月ほど前のこと。クラスメートではあったものの、それまでほとんど交流はなかったのだ。
その日は、珍しく何もない休日だった。だから雪男は、依頼に講師業にと多忙だった日常の中で買い忘れていたジャンプSQを買いに、正十字学園近くのコンビニエンスストアへ行った。それが転機になるとは知らずに。
幸運なことに、棚には1冊だけ残っていた。だけれど、ラスト1冊になった雑誌に手を伸ばしたのは、自分だけではなく。
―――それが、学年2位の成績保持者の、その人だった。



さんも漫画読むんですね』
『奥村くんこそ。「漫画なんて大嫌い」とか言いそうなタイプだと思ってましたよ』



普段は三つ編みにしている髪を解き、制服ではなくシックなワンピースに身を包んだ少女は、学校で見る姿とは雰囲気が随分違っている。
SQは半分ずつお金を出し合って買い、交代で読むことにしようと言い出したのは、雪男だった。
「ゆっくり読みたいですし、どうせなら僕の寮に来ませんか。お茶でも出しますよ」。
その発言に、下心がなかったのかと聞かれれば、まぁ全くなかったとは言えない。ただそのときは、ホイホイと付いてきたの警戒心の無さに呆れはしたものの、手を出すつもりは毛頭なかった。



『知らないことを知るのって楽しいですよね』



寮の料理長でもあるウコバクにお菓子でも出してもらおうかとも思ったが、どこかに出かけたのか、ウコバクどころか燐もクロもいなかった。
誰もいない食堂に案内して、お茶を入れる。2人しかいない寮はとても静かで、でもその静謐さが心地よかった。雑誌を読み終えた後も、優等生たちは難しい勉強の話で盛り上がった。さすがは学年首位と次点、数学や国語、化学に英語、何の教科でも話は尽きなかった。は帰るそぶりを見せず、雪男自身もまた、まだ帰って欲しくないと思っていた。



『この世には、私には想像もつかないことがいっぱいある。それを、全部とは言いませんが出来るだけたくさん知ることができたら素敵だし、他のみんなよりも詳しく知りたい、早く知りたいなぁ、って思うんですよね』



ようやく話が消沈化したのは、おかわりされたお茶が10杯を超えた頃だ。
女子寮まで送ります。いいえ大丈夫です。
そんな押し問答を繰り広げながら2人が外に出ると、辺りはすっかり薄暗くなっていた。



『ああ、その気持ち分かります。僕には双子の兄がいるんですけど』



結局、雪男は送っていくことを譲らなかった。この時間は最も悪魔が出やすいからである。
悪魔の存在を露ほども知らない、知りたがりの少女の横を歩きながら雪男は考える。
彼女が祓魔塾のことを知ったらどう思うのだろうか。
悪魔である兄を持つ双子の弟が中一級祓魔師として頑張っていることを知ったら、どう反応するのだろうか。



『燐くんでしょう? 奥村燐くん』



驚いたことに、彼女は全校生徒全員の顔と名前を覚えているのだと言う。正十字学園の学生はとんでもない数のはずだが、さすが、知りたがりは伊達ではないらしい。



『ええ、その奥村燐です。……兄と僕は、双子ですから。無意識のうちに、何かと競争してしまうんですよね』



小さい頃はそうでもなかったんですけど。
その言葉に嘘はない。兄に比べると身体も弱く、体躯も小さかった雪男はなんでも負けていたからだ。
でも、小学校に入って、兄に内緒で祓魔塾に入って、身体を鍛えて勉強に励んで……。
そんな今となっては、背も超えたし、勉強面でも勝っている。祓魔塾の教師としても上の立場だ。
だけれど、それでも心の底では兄に敵わないという気持ちが付きまとっている。
燐を出し抜いてやりたい、その感情が身体の奥深くで燻って離れない。



『やっぱり兄にだけは負けたくないなぁ、って』
『……へぇ』



意外だというように相槌を打つその横顔は、真剣に黒板を見つめる授業中と何ら変わりのない表情だった。
生温い風が、彼女の髪を弄んで攫っていく。



『お兄さんが知ってて、奥村くんが知らないことなんて、もう無さそうですけど』
『まさか! どうしても、料理の知識だけは兄には勝てません。それに、まぁこれは兄弟2人に共通して言えることでもありますが、僕は今まで忙しくて友達付き合いとか男女交際とか、そういったものが皆無でして。兄以外の人と手を繋いだことはもちろん、異性とデートの経験もないんですよ』



訓練生が任務の手伝いとして、メッフィーランドで霊の捜索をしたことがある。
そのとき、偶然ペアになった燐としえみは、共に初めての遊園地にはしゃいでいたのを、雪男は思い出した。
その後、アマイモンによって引っ掻きまわされてしまったものの、「今度しえみと一緒に遊園地行く約束したんだぜー!」と楽しそうにしていた燐の笑顔が忘れられない。



『そうだ。もし宜しければさん、今度デートしてくれませんか?』



びっくりすることに、その発言には邪な気持ちはなかった。



―――僕は兄が羨ましいんだ。僕だって、たまには誰かと一緒に遊園地に行ったりしたい。



うっすらそんなことを自覚したのは、燐はサタンの子である、という事実が祓魔塾の面々に知れた頃だ。
塾の同級生たちと親しくなっていく燐の様子に、どこか心穏やかでなかった。自分だけが、大切なものを学習しないまま取り残されてしまった子どものような気分だった。
でも、兄の正体がばれて、いざこざが生じて、塾の皆との間に距離が出来て……。そんな片割れの姿に、どこかほっとした気分になったのを覚えている。



『な……に言ってるんですか、もう。奥村くんモテるんだから、お相手はいくらでもいるでしょう?』
『別に彼女が欲しいわけではないですから。一度でも誤解を招いたら、後がめんどくさいことになる』



言葉巧みに誘惑し、翻弄し……。結局、雪男はとのデートの権利を得た。
一度でも勝ち取ってしまえばこっちのものだった。というのも、雪男同様に彼女も友達付き合いで遊びに行くということがさほどなく、もちろん男女交際の経験もないということが分かったから。
そうと分かればこっちのもの、ずるずると肉体関係に持ち込んだ。「興味ありませんか? みんなはもう知ってるんじゃないですか?」と唆し、事あるごとに彼女と繋がった。



「ほらほら。もう少しですよ、あと少しで全部入りますから」



本当に彼女が知りたいのは、“こういう”知識ではないことぐらい、気付かないわけじゃないけれども。
例えばそれは、難しい方程式や、地球の裏側にある国の言語、裏の世界に蔓延る黒い噂とか世の中の七不思議、それから彼女の知らない祓魔塾という存在のことであって、こんな思春期真っ盛りで不埒な体験などではない。
それでも、そこにつけ込んだ。知りたがり、そんな性格を利用したとも言えよう。



「……ぁ、ふあっ」



恐々と腰を下ろしてきた彼女にしびれを切らして身体を起こしてみる。これでは騎乗位ではなく対面座位になってしまうなぁ、なんて思っていると、バランスを崩しかけた彼女が肩にしがみ付いてきた。接合部分がより深くなり、卑猥な水音が増す。



「早くしないと、兄が帰ってきてしまうので」
「っ、おくむらく、ん?」
「それは兄のことを気にしてるんですか? それとも僕のことを呼んでる?」



名前で呼んでくれないと、どちらの奥村なのか分かりませんよ。
背中に腕をまわし、耳元で囁く。
ぐちゅり、ぐちゅり。性行為のときにこんな音がするなんて、きっと兄は知らない。
それは、彼女の悦に浸った顔を学校中の誰も見たことがないのと一緒で、まだ知る必要のないことだ。



「ゆき、おくんっ、のほ……う、」



知りたい知りたい、と貪欲に願う少女はしかし、雪男のことをあまり知ろうとはしてくれない。聞いてもくれない。
自分はこんなにも彼女を知ったのに。ナカから外まで、本人以上に詳しく彼女を知っているのに。



「はい、良く出来ました。ご褒美に、良いこと教えてあげますね。……そのコンドーム、実はさっき穴開けといたんです」



そのことに苛立っている雪男の気持ちだって知らないくせに。



「や、やだっ!」
「大丈夫でしょう。さん、今日安全日ですからね。でもまぁ、もし子どもが出来たら、ちゃんと責任取りますよ。安心してください」



同級生のみんなよりも早く、母親になるっていう経験が出来て良かったですね。
悪魔の弟は、悪魔よりも残酷なことを囁く。



「収入もそこそこありますし、養えますから大丈夫です」
「な、なんで、」
「なんで収入があるかって? それは追々教えますから」
「ちが、そのことじゃ……ふぁ!」



知っている。なんで自分がそんなに焦っているのか知りたいんだろう?
でも教えてやらない。教えてやるもんか。



「自分で考えなきゃ、勉強の意味ないんですよ、さん」




優等生コンスピラシー


Conspiracy:したたかさ、陰謀、罪、秘密事、密事などの意味