ねぇ、みーちゃん、という小さな声が、がらんとした部室に響く。
ちらりと横を見れば、読書に夢中だったはずの後輩はいつの間にか本から顔を上げており、その柔らかい色を灯す茫洋とした視線と目があった。



「泉さんが行方不明になってから、やっぱりいろいろ忙しい?」



凪が来て、妖夢の力が弱まって、秋人が『境界の彼方』だったことが分かって、栗山さんが消失して、でもまた戻ってきて、というごたごたがあったあの出来事から、少しの月日が流れた。
相変わらず妖夢は出没するし、藤間弥勒が壊していったものは多かったし、しばらく名瀬家は異界士協会から睨まれていたし、そして泉姉さまは行方不明のままだった。
それでも、私たちは前へ進んでいかねばならなかった。



「そうね。今までの仕事を姉さま1人に任せっきりだったことが悔やまれるくらいには、忙しいかしらね。とはいえ、私は未だに部外者のような扱いだから、それほどでもないわ」



兄貴は知らないけれど、と付け加えたのは、ツンデレではなくて本音だ。

―――姿を眩ませた長女の代わりに名瀬の当主になったのは、その弟であり長男だった。



現役高校生に当主が務まるか、という反対の声もあったそうだ。だけれど『元々幹部だったのだから特に不都合はないだろう』と言い張って無理に捩じ伏せたと聞く。その裏には、私を関わらせずに今の平穏な状況(秋人への監視とか、栗山さんへの恩赦とか)を維持しようという意図が見て取れた。
度が行き過ぎたシスコンである変態で困った部分も多いあの兄貴だが、それもある意味では私が守られているということだ。それは歯がゆく、とても悔しい。



「やっぱりヒロくんお疲れなのかなぁ……」



今日の文芸部の部室は随分と閑散としていた。
『無断で消えようとした未来には罰が必要だと思う』と今更のように言い出した伊波さんが、貧乏生活真っ最中の栗山さんにケーキを強請ったらしい。だが、そんなお金はない栗山さんは『そ、そもそもは先輩のせいじゃないですか!』と金蔓の秋人を連行して行ったのだ。
兄貴は仕事で今日は来ていない。だから、部室に居るのは私とだけだった。



「なにかあったの?」
「うーん。なんか、肩とか背中とかなぞった時に、ちょっと痩せたような気がして?」



頬杖を吐きながら小首をかしげる
机に伏せられた読み掛けの本は『幸福の王子』だった。書庫にはなかったはずなので、私物なのだろう。



「そう。私は気付かないけれど、まぁが言うのであれば、そうなんでしょう」



親密な関係にあることを匂わせるその台詞の妖艶さに、一瞬くらりとした。
と兄貴の関係は、本人たちを除けば、おそらく秋人と私しか知らない。伊波さんはもちろん、上手いこと言いくるめられた栗山さんも気付かない。



「少し具合も悪そうだったし……」



妹分として可愛がっていた居候の少女の通学鞄から、大量の避妊具が出て来たことに驚いた秋人がそのことを相談したのは、よりによって兄貴だった。
「シスコン代表の博臣に、妹分に彼氏が出来た場合の対処法とその意見を聞こうと思ったんだ……」と秋人は言っていたが、そんなことを相談出来る友達が他にいなかっただけじゃないかと言うのが私の見解だ。
その結果、「がそれを使っている相手は俺だ」という現実を突き付けられて行き場を失った秋人は、唯一事情を把握していた私に相談をするようになり、今に至る。



「そういうの方こそ顔色悪いわよ。……無理してないでしょうね? 変なプレイとか強要されてたら言いなさい」
「ふ、普通だよ! なにを言い出すの!?」



『美月からも、を早めに帰すように博臣に言ってくれ』と休み時間に言いに来た半妖の眼鏡好きは、去り際に、博臣がを呼び出す回数が最近やけに増えているんだ、と告げて行った。
確かに、ここしばらく私への干渉が妙に薄いとは思っていた。その代わりの執着の矛先がに向いているのだろう。



「おにいちゃんプレイとかやらされてないか心配だ、って秋人も心配してたわよ」

他人に眼鏡掛けさせて喜ぶ性癖の持ち主が言えたことではないと思うが、そんな変態の秋人までもが心配しているのだ。



「してないよ! ……まぁ、確かに『お兄ちゃん』って呼ぶと興奮するっぽいけど」



という異界士がこの街にやって来たとき、彼女は財布の他は何も持っていなかったと聞く。
まるで、ふらりとコンビニへ寄ったかのような軽装のまま長月市に住みついた少女は、未だに『私は、アキ兄の家に居候している身分だもの』という理由で、ほとんど私物を持っていない。
必要最低限の荷物と、学用品。数枚の私服と、暇つぶし用の本数冊。全部含めても段ボール2箱分にも満たない、その荷物が彼女の全てだ。
お金がないわけではない。効率的に淡々と妖夢退治をするは、実のところ栗山さんよりも収入が多いからだ。
秋人だって、もっと物を買いなさい、と口を酸っぱくして言っているし、私や栗山さんもお揃いのものを持とうなどと口実を付けていろいろ持たせようとしている。それでも、ダメだった。



「……あんな変態男のどこがいいの」
「ヒロくんは優しいし、強いし、かっこいいよ? この本の、幸福の王子の像みたい」
「そうかしら」



本を掲げてそう微笑むの方こそ、まるでツバメみたいじゃない、という言葉を呑みこむ。
これだけ物がないと、がふらっとどこかにいなくなってしまいそうで、私は恐かった。
着の身着のまま、単身で旅するツバメは、まさに彼女の生き様そのものだったから。



「幸福の王子の像はね、町中の人から美しいね、立派だね、自慢だねって言われてるの。でもそんな有名なのに、2つのサファイヤと1つのルビーと純金で自分の身を削って、町の人を救うその影の努力と苦悩は、誰にも知られることはないんだよ」



妖夢のことを知らない人は、確かに、名瀬家のことを『ただの金持ちの地主一族』だとしか思っていないだろう。
の言うとおり、半妖である秋人を監視していることとか、妖夢退治をして街の平和と安寧を保っているとか、そういう努力は知られていないに違いない。まぁ、私たちだって別に理解を求めているわけではないのだけれど。



「でも、像は所詮お飾りだわ。どこにも行けず、自力じゃ何も出来ない。ツバメがいなければ、ただ悲しみ嘆くだけの存在じゃない。大体、そのツバメが死んだのは誰のせいだと思っているのよ」



ツバメが可哀想だわ、と呟いた自分の声は、妙に掠れていた。
王子の良き理解者だったツバメ。幸福の王子のせいで、エジプトにも行けず死んでしまった小鳥。
幸福の王子が何日も引き留めなければ、ツバメは無事にエジプトに行けたのに。その命は失われずに済んだのに。

兄の良き理解者である。異界士でもあり、名瀬家の本当の役割を知っている彼女。
名瀬の正式な後継ぎとなったこと、3年生は受験に向けて自由登校になったことの両方が相まって、兄貴はほとんど学校に来なくなった。それでも、と会うことだけは欠かさないでいる。
2人が何をしているのかを想像できないほど私は馬鹿じゃないし、それをいやらしいと思うほど純粋無垢ではなかった。
背中の傷が痛むからとか、妖夢退治で疲れたからとか、妹属性の補給だとか、なんだかんだ言い訳をしてはに会いに行く兄を、私は何度も止めようとして、でも一度も出来ないでいる。



「あのねー、ツバメは全然可哀想なんかじゃないんだよ。最後は自分の意思で残ったんだよ」
「そうだったかしら」



2つ下の可愛い後輩に、どう見ても持て余した性欲の処理を押し付けているようにしか思えないのに。
それでも兄のストレス発散を考えると止められない私は、最低なブラコン女なのだろうか。



「そうだよ。みーちゃんも、読んでみれば分かるよ」



あげるから読んで確認してみて、と言って押し付けられたその本は、鉛のように重く感じられた。



「別にいらないわよ。読み終わったら、返すわ」
「えー、いいのにー」
「……いいえ、絶対返すわ。絶対に」



だって私は、これ以上、あの子の荷物を減らすわけにはいかないのだから。




+++




そうして、から借りた本を、私は読んでいる。
食堂のテーブルで、ヤキイモを膝に乗せて、ページをめくっていく。擦り切れた表紙やページから察するに、この本は随分と読み込まれているらしい。
は、『いろいろありましたが、最後は大団円でハッピーエンドです』という御伽話や冒険譚を主に好んで読んでいたはずだ。それは、貧しい美少女が素敵な王子様と結ばれたり、子どもしか行けない夢の国に招かれたりするようなファンタジーであって、むしろ「幸福の王子」のような薄暗い展開の物語はあまり好きでないはずだった。
もちろん、私もあまり好きではないのだけれど。



「珍しい本を読んでいるんだな。オスカー・ワイルドなんて、美月の趣味じゃないだろう」
「私のじゃないわ。の本よ」



お風呂上がりらしい兄貴が髪を拭きながら話しかけて来て、思わず溜息を吐いた。妹の好みを把握しているなんて、なんとも気持ちの悪い変態だ。



「『男は愛する女の最初の男になる事を願い、女は愛する男の最後の女になる事を願う』……か」



そんな変態でも、著者の名言を諳んじてみせるところは、腐っても文芸部員というところか。
大判のバスタオルで隠れたその顔の下で、兄がどんな表情をしているかは見えない。



「兄貴は『幸福な王子の像』に似てるって。が」
「随分と買い被られたもんだなぁ」



妖夢を倒すために操を捨てようとしたの身近に、妖夢のことを知っていて、なおかつ後腐れのない都合のいい男がいて良かった。と、あの日の兄は言った。
『彼女が、初めての相手に、名瀬博臣という都合のいい人間を選んでくれて良かった』と。
その真意は分からない。でも、なんだかんだで、兄はのことを大切に思っているのだと思う。



「―――あんまり、にひどいことしないで頂戴」
「おぉ、嫉妬か?」
「違うわよ! ……あの子、滅多なことじゃ弱音を吐かないから不安になるのよ」



現に、妖夢を倒すためだけにとんでもないことをしたでしょう、と言えば、目の前の男はくしゃりと泣きそうな顔になる。



「……本人は、自分のこの街で自分が求められた役割に必死なだけなんだろうが、まぁ、みんなのお兄ちゃん役としては心配だな」

みんなのお兄ちゃん役という、その謎の役割は置いておいて。

に求められた役割?」
「そう。ひとつめは、神原秋人を見守り、その良き理解者……家族のような存在でいることだ」



これまで、「バケモノ」と言われて、冷遇を受けてきた秋人。妖夢化したときならいざ知れず、普段は異常なほどに眼鏡が好きな、しごく一般的な男子高校生だ。
それなのに、彼は理解されない。異界士からは妖夢として見られ、妖夢からは人間として見られ、一般人からは化け物として見られる。何処にも属せない異端の者だ。
そんな秋人を理解し受け入れることで、は家族であろうとした。



「ふたつめ、これも似たようなものだが、栗山未来の友達となって、その学校生活をなるべく円満なものにすること。伊波桜が転校してきてからは、彼女にも同様のことが言えるだろう」



栗山さんだってそうだ。
体内を流れる血を使って妖夢を退治してきた一族の末裔で、忌み嫌われる血の異能を操る彼女は、伊波家の屋敷に幽閉されていた。その家の娘の唯を殺してしまったときには「処刑せよ」という残酷な声すらあったと聞いた。
そんな運命に翻弄される彼女を支え、励ますことで、友達であろうとした。



「みっつ、二ノ宮雫を始めとする他の異界士と協力して、名瀬家の監視の元、その異能力を使って長月市の妖夢を倒す、異界士であること」



多分だけれど、の中の重要度としては、これが一番だったのではないだろうか。だからこそ、彼女は異界士としての仕事を執行するために、自分の貞操までも捨てた。この街を守る、異界士としてあろうとした。

「よっつ、名瀬博臣ならびに名瀬美月の身辺を守り、ときに孤独を分かち合う仲間であること……だな」

泉姉さまは「名瀬の人間ならば孤独でいろ」と幼かった私を突き放したし、兄貴からは過保護にお節介に甘やかされていたために気にしたこともなかったが、確かに私たちは『地主の名瀬家の者』ということで、周囲からはよそよそしく扱われるのが当然になっていた。
言われてみれば、ありのままの私と接してくれるのは文芸部の部員たちくらいかもしれない。
事実、私はや栗山さんを、仲間だと思っている。友達よりも、もっともっと信頼のおける仲間だと。



「それが、あの子が果たそうとしている立ち位置なの?」



そう言われてみれば、はどこか「求められているキャラクターを演じている」節があった。眼鏡を掛けて微笑んでみたり、従順な妹系キャラでいようとしたり、可愛い後輩であろうとしたり、優しい友達を貫いたり……。
そしてそれは、確かに私が、私たちが無意識に欲しかった存在だった。求めていた存在だった。



「そうだ。……そして、本人は知らないが、周囲から求められている役割もある」



これが厄介なんだ、と苛立たしげに言い残して立ち去ろうとする兄。ご機嫌を取るために、その服の裾を引っ張って「待ってよお兄ちゃん」と精一杯の可愛さを作って呼び止める。



「言い逃げとは卑怯な手を使うじゃない。その、もうひとつとは何なのよ。はっきり言って」
「―――名瀬博臣と関係を持ち、後に名瀬の跡取りを生むことだ」
「な、」



ぱたり、力なく落とされた手は、私の手か、兄の手か。
に求められた役割は、私の予想の斜め上を行っていた。




+++




「なんで、そんなことになっているのよ!」
「そう怒るなよ。俺だって、こんな話は知らなかったさ。教えられたのは泉姉さんがいなくなってからだ」



言われるまで気付きもしなかったんだ、とすっとぼけるその声音は単調で、それが嘘かどうかわからない。



「あの子の異能力は、凍らせることだ。要するに、名瀬の異能力と相性がいい」



異能の力は、主に血統が関わって影響してくる。事実、名瀬の一族は檻を張る異能を持っているし、栗山さんはその血を使って妖夢を倒しているくらいだ。



「じゃあ、なに。兄貴との子どもは、凍結界が使えるかもしれないってこと?」
「簡単にいえばそういうことになる」



凍結界というのは10年に一度の才能だと言われている。泉姉さまがいなくなってしまった今、早い次世代の担い手が必要なのだろう。



「ちなみに、俺がとの関係を切らないのは、不純な欲望のためじゃないぞ。異界士協会にも名瀬の一族にもコトがバレているからだ。……顔を合わせる度に双方から『交際は順調か』と聞かれる身にもなってみろ」



姉さまがいなくなっただけで、名瀬家がそこまで追い詰められていることに愕然とする。何も出来ない自分が情けなかった。



「―――ここまでのことをしておいてなんだが、俺は、あんまりそういう打算的な考えでを見たくないんだ」



兄が、顔を掌で覆って、叫ぶように呟く。あの子の未来を悲観して嘆きたいのはこっちの方だ。
ずっとこの街にいてくれ。将来は名瀬家に嫁いでくれ。そしていつか、後継ぎとなる子どもを産んでくれ。もし名瀬家の当主様が、そう望んだら。
その願いのため、は献身的に働くだろう。何を捨ててでも、尽くすだろう。
そう。それは、幸福の王子の像に頼まれた、ツバメのように。



「でも、俺のせいでこの街に引き留められたら、間違いなくの将来と自由と幸せは奪われる。それは可哀想だと、俺は思う」



ルビーをあの母親に届けておくれ。片目のサファイヤをあの若者へ。もう片方のサファイヤはあの少女へ。純金は子どもたちへ。心優しい幸福の王子はそう望んだ。
その願いのため、小さなツバメは献身的に働いた。王子が盲目となった折には寒さをこらえながら物語や街の様子を話して聞かせてやった。
幸福の王子のせいで引き留められ、命が奪われることとなったツバメは可哀想だ、と私も思っていた。
そして、兄もそう思っている。
でも、それは違うとは笑った。「本を読めばわかるよ」と笑った。



ツバメと王子の幸福な心中
(さむいこころ そのやさしいてでつつんで)






どうして、どうして気付かないのだ、幸福の王子は。
どうして、どうして気付かないのだ、この兄は。
可愛い小さなツバメが、死ぬまで王子の願いを叶えてあげていたのは、同情とか優しさからではない。
単純に、心から彼を愛していたからだ。







BGM:「キャンディ」-原田真二


(多分書きませんって言ったのに書いてしまったシリーズ)