『ねぇ、テッちゃん。いつだったか、「先にレギュラー入りした方のワガママを一つ聞く」って約束、したでしょう?』



大雨が降っていた。
遠くの方で雷が鳴っていて、ときおり空の端で、黄金色の閃光が驚きの早さでよぎっていた。



『しましたね』



ざあざあと耳を打つ雨音は不愉快だったが、それよりも、お互い傘も差さずに立ち尽くしていることの方が不愉快だったし、何より、大雨に負けぬように叫ぶかのごとく大声で話さないといけないこの2人の距離が何より不愉快だった。
白のジャケットを通り越し、雨は中にまで浸透している。水色のワイシャツまでもが肌にくっついて、気持ち悪かった。試合などで、汗びっしょりの状況になるのは慣れているはずなのに、どうしてなのだろう。
ふと目をやった先で、自分と向かい合って立つ少女の濡れたスカートが太股に貼り付いてるのが見えた。ああ、あれじゃあ風邪を引くだろうな、と思う。
雨に濡れて風邪を引いたら、「お前は体調管理も出来ないのか?」と怒られるだろうか。でも一体、誰に怒られる? どっちが怒られる?



『あぁ、良かった。忘れてなかったんだね』



あのとき決めた勝負。負けたのは自分で、勝ったのは彼女だった。
勝者は全てが肯定される、とある人は言っていたっけ。だとするならば、彼女の言葉は肯定されなければならないのだ。



『あれね、決めたの』
『一体、なんですか?』



そう。例え、どんなお願いであっても―――。



『もう、私に関わらないで。
―――く ろ こ く ん』







「……っ、!」


そこで目が覚めた。脂汗が垂れる。



「ちくしょう……」


寒々とした自室のベッドの上で、拳をきつく握りしめる。
あのとき、勝負に勝っていたら、何かが違っていたのだろうか。例えば、今でも彼女は名前で呼んでくれた? 例えば、二人の関係は、もっと良い方に進んでいた?
でもそれは、全部仮定の話でしかないのだ。結局のところ、自分は負けたのだから。
試合にも、自分の気持ちにも―――。

彼女のことを思い出すとき、その季節はいつだって春だ。
出会ったのはもっともっと前のこと、それこそほんの小さな頃のはずなのに、何故なのか分からない。
でも、懐かしき過去に思いを馳せると、どうしても麗らかな春の日に戻ってしまうのだ―――新入生オリエンテーションも終わり、残すところは部活動見学になったあの日を。








「テッちゃーん!」
さん?」


遠くの方から、手を大きく振りながら走り寄って来る少女。黒子の幼馴染みのだった。
ほとんど空に近いスクールバッグをカタカタと言わせながら横までやって来る。
影の薄い自分を、いつだって見つけてくれる唯一とも呼べる存在。
かくれんぼをしても鬼ごっこをしても、いつも途中で忘れられてしまう黒子だったが、それでもだけは、いつだって見つけてくれた。



「クラス離れちゃったねー、残念」
「教科書忘れたときとか借りに行けますし、良いと思いますよ」
「えー、そんなもんかなぁ」


いつだって自分のすぐ横で笑っていてくれた。


「ところで、テッちゃんは何部に入るの?」
「バスケ部に入ろうかと思ってます」
「お、一緒だ! なんかね、帝光中のバスケ部ってすっごい強いんだって」


三軍まであるんだって、だから頑張らないとレギュラーになれないし、試合にも出れないんだって、と楽しそうに語るを見ているだけで、黒子まで楽しくなるのだ。



「それはうずうずしますね」
「テッちゃん、負けず嫌いだもんね!」
さんこそ。今だってうずうずしてるんじゃないですか?」
「うん。実はすでに足と腕が疼いてるの」


黒子とは、趣味や嗜好こそ似てないものの、性格はよく似ていた。負けず嫌いさと、途中で諦めるのを何よりも嫌うところは、特に。
それこそ、ぱっと見た目では男女の区別も付かないほど幼い頃は、まるで双子みたいに性格がそっくりね、と言われたくらいだった。
しかし、小学校に上がった頃くらいから、差ばかりが顕著に現れ出す。
クラスの人気者で、中心でいつも笑っていると、どこをとっても普通で平凡で影の薄い黒子。
いつしか二人の間には、距離と溝とが出来始めていた。

そんな2人を繋ぎ止めたのは―――バスケットボールだった。

テレビで放映されていたバスケの試合を見て面白そうだと興味を示したのは偶然だった。
もちろん、中学でバスケ部に入ろうと思ったのも、偶然の一致だった。


「じゃあ、どっちが先にレギュラーになれるか、競争しませんか?」
「あ、いいねそれ!」


我ながらずるいことを言ったという自覚はあった。
こういう風に『競争』という形にしてしまったら、負けず嫌いののことだ、絶対に忘れることはないだろう。
つまり、少なくとも部活をしている間だけでも、勝負のことを、互いのことを思い出さねばならないのだ。
そのことを考えるだけで、黒子の胸は優越感でいっぱいになるような気がした。その優越感は、後々になって時折、自身を苦しめることにもなるのだけれど。


「負けた方は、先にレギュラーになった方のワガママ一つ聞かなきゃダメだよ!」
「いいでしょう。ボクは負けませんよ」
「む、私だって負けないし」


……やがて2人は2年生へと進級する。
新1年生が入学してきて、部活にも後輩が入部してきたころ、先にレギュラー入りしたのは、彼女の方だった。運動神経はお互い同じくらいだったので、元々才能があったのだろう。


『わーい、テッちゃんに勝ったよー』
『負けました。悔しいです……』


電話で報告してきた、嬉しそうな彼女の声は、今でも忘れることのできない良い思い出だ。
そして、自分がレギュラーとして『キセキの世代』の六人目になった頃、は女子バスケ部の主将に選ばれた。
……そのころからだ。忙しさから、すれ違いが続くようになったのは。
勝利のご褒美の「ワガママ」は結局お流れになっていたし、それどころか、しばらく会話も出来ていなかった。
そして、その代わり、自分がそれまでいたポジション……彼女の隣にいるようになったのは、


―――赤司征十郎。


黒子も含めた帝光中バスケ部の主将であり、『キセキの世代』と呼ばれる軍団を率いるリーダーでもある彼が、の横にいることが増えた。

いつだったか。女バスが近所の中学との練習試合で敗退したとき、赤司の胸でわんわんと泣きじゃくるを見たことがあった。
昔から、超がつくほどの負けず嫌いで、何かの勝負事で負ける度に、黒子の横で鼻をすすっていた泣き虫で気の強い彼女が、素直にぽんぽんと頭を撫でられたままでいる。
ただ慰めていただけにしては随分と親密そうで、なおかつ珍しく優しさの籠もった赤司の視線に、「ああ、もう自分の居場所はないんだな」とどこか他人事のようにぼんやり思ったのを覚えている。

でもそのことは、自分だけが知っていることなのだ。
何故なら、その場面を目撃していたのは黒子だけだったし、二人はといえば、影の薄い自分に気づいていないようだったから。
だから、黒子は自分の胸に突き刺さる棘のような痛みの正体が何なのか、誰にも相談できなかったのだ。

だから、あのシーンを見たとき、血が沸騰しそうなほどの怒りが沸いたのも、無理はないと思う。


時期は良く覚えていない。
まだ蒸し暑いというほどではなかったが、体育館での練習が終わるとじっとりと汗をかくくらいには暑かったような記憶があるので、初夏辺りだったろうか。
部活が終わって一時間もすると、夜の帳が降りてきて、かなり涼しくなる。
少し前までは桃井を含めたキセキメンバーたちと一緒に帰ることも多かった黒子だが、試合時に感じる違和感や不信感から、ちょっと距離を置き始めた時期だった。
その日も、広い部室の影で、いつものようにみんなが帰るのを、気配を消し息を潜めて待っていたのだ。

もうみんなとっくに帰ったものだと思っていた。学校内に自分一人のような気さえするほどの静寂。
だから、忘れ物に気付いて体育館に戻ったとき、そこに電気がついているのを少し不審に感じつつも、安堵感を覚えたのも事実だ。
別に幽霊が怖いとかではない(むしろ自分自身が幽霊だと思われていた過去もある)。それでも誰かがいるかもしれない、という淡い期待をしてしまうのは否めなかった。

扉をそろそろと開け、中を覗き見る。
電気が付いていたのは消し忘れなどではなく、ちゃんと人がいるからのようだった。
中で動く人影を確認し、ほっと溜息を吐く。
―――が、その安堵感は一瞬にして砕けることとなった。



ちらりと見やった視線の先、体育館の隅の方……そこには、の首を絞める赤司の姿があったからだ。




あひる座りでぺたんとしゃがみ込み、無抵抗のまま目を閉じる少女の細い首を、両手でぎゅうぎゅうと締めている赤司。それは、まさに異常な光景だった。


「赤司くん!」


思わず叫び声を上げれば、その声に驚いたのか、ぱっと赤司が手を離す。そのまま、雪崩れ落ちるように床に叩きつけられるの身体。ぐにゃりとした肩や手首が、なんだかとても不気味だった。



「何を……何をしてるんですか!」


赤司の足元には、苦しそうに横たわる幼馴染みの姿があった。


「っ、大丈夫ですかさん」


顔面は真っ青で、胸を押さえながら肩で息をしている。
慌てて駆け寄った黒子だったが、


「触らないで!」


鋭い声に思わず立ち止まった。


「お前のせいだよ、黒子」


そんな黒子を更に追い詰めるように、にじり寄りながら赤司は言う。


「な、なにが……」
「かわいそうになぁ。お前がもう少しに気を掛けていれば、こんなことにはならなかったんだぞ?」


『お前がもう少し気に掛けていれば』? どの口がそんな台詞を吐くのか。
本来であれば、彼氏である赤司が気に掛けるべきであって、今や、ただの幼馴染みでしかない自分が、彼女のことを気にする必要性はないではないか。
そう言おうとして、でも何故か言えなかった。その代わりに、強く睨みつけて大きく深呼吸をする。


「……それ、どういうことですか」
「さあな。ただのひとりごとかもしれない」


一呼吸の後に冷静を装って尋ねるものの、語気は思いのほか荒いものになっていた。
そんな自分を冷笑するように、呆れたような肩をすくめる余裕さえ見せてから、赤司は再度の傍にしゃがみ込んだ。


「いいか、よく聞け」


―――そして彼は、恋人の胸ぐらを乱暴に掴むと、耳元で何かを告げたのだ。


その場には自分もいた。いたはずだった。
広い体育館には誰もおらず、しんとしていたのは覚えている。皮のはげたバスケットボールが足下に1つ転がっていたことも、そのボールに苛立ち、軽く蹴跳ばした上履きの汚れまでもはっきり思い出せる。
それでも、そこに自分の存在はなかった気がしてしまうのだ。
それくらい、自分は異質なものだったのだ。


あのとき、彼は、何と言ったのだろう。
何故あの後、彼女はバスケ部を辞めたのだろう。


。―――』