部活に行こうと廊下を歩いていると、ぱたぱたと上履きの音がして、小さなぬくもりが後ろから飛びついて来た。

「すーちゃん!」

無駄に大きな声に、なにごとかと周囲の生徒が振り返ってくる。倒れ込みそうになるのをなんとか踏み留まると、飛びつかれた男子生徒―――日高昴は溜息を吐いた。

「すーちゃんって呼ぶな」
「なんかさー、ロボ部って楽しそうだよね!」
「ロボ部の話をするな。というか、お前は少し人の話を聞け……」

衝撃でずれた眼鏡を押し上げながら呟く。
後ろを見なくても分かる。「えー」と言いながら背後から抱きついてくるのは彼の幼馴染みの少女で、名をと言う。すーちゃん、なんてふざけたあだ名で自分を呼ぶのは、彼女しかいなかった。

「じゃあ、ミスタープレアデスくん?」

細い腕が首筋に回され、耳元で囁かれる。思わず鳥肌が立ってしまったのは、その声が妙に艶めいて聞こえたからだ。
別に、背中に当たる2つの柔らかな感触のせいじゃない。そう、そんなんじゃない。

「……黙れ。正体がばれる」
「じゃあ、なんて呼べばいいのー?」
「素直に、日高くん、とか、せめて昴くん、でいいだろ」

日高昴=ミスタープレアデス。そのことを知っているのは、自分たちだけだったはずなのに。
例え街の人たちが勘付いていたとしても、それでも、ミスタープレアデスのことは、幼馴染み2人だけの秘密だった。そう思っていた。
いつの間にか、『ロボ部の秘密』へと変わったそれは、昴との間に生じた最初の亀裂だったような気がする。

「ねっねっ、ロボ部、楽しいんでしょー? ほらほら、言っちゃいなさいよぅー」
「……まぁ、確かに楽しいな。今まで、ロボットのことはあんまり理解されなかったし」

嘘ではなかった。ロボ部は、確かに楽しかった。
部員はみんな、癖はあるけれどもいい人だ。なかなか素直になれない自分のこともちゃんと理解してくれるし、とても優しい人たちだと思う。
多分、種子島の人たちは(もちろんも含めて)、みんなロボ部が大好きだろう。

でも、正直、昴は寂しさを隠しきれなかった。
JAXAを嫌う父親はロボットを憎んでいた。もちろん、そんなものに息子が興味を持っていることや、ましてや作ることなんて大反対だった。
だからM45を作っていたときも、こそこそと制作に勤しんでいたのだ。父親がいないときに家で制作図を広げることはあったし、休日に学校に行くこともあったけど、でもその制作時間のほとんどが、違和感を抱かせないような放課後や休み時間だった。
それでも。それでも、ごく稀に、どうしても進捗が気になってしまうときがあった。そういうとき、昴はを使って、家を抜け出していた。
『成績の悪いに勉強を見てやるから』とか『寂しがり屋のと買い物に行く約束をしたから』とか『学校に忘れ物をしたがどうしても一緒に来て欲しいっていうから』とか、そんな理由がほとんどだったと思う。
幼馴染みの名前の前にわざとらしい代名詞をつけては外出する息子を、父親がどう思っていたのかは知らない。だが、そのアリバイが一度たりとも疑われたことがなかったのは、ひとえにが信用されていたからにすぎないのだろう。
罪悪感はなかった。私を言い訳に使っていいよ、と最初に言い出したのはの方だったからだ。
ヨーグルッペを飲みながら「少しでもすーちゃんの負担を減らせるのなら、私を言い訳に使っていいよ」と笑うその横顔を見たのは、確か中学1年くらいの頃だ。自転車に腰掛けたままロボットの話に相槌を打つ同い年の幼馴染みは、小さい頃から女子と会話するのが苦手だった昴にとって、唯一の存在で、大切な存在だった。
クールに構えすぎたり、テンパってしまってクラス内で誤解されたこともあった。でも、機械をいじっているとそんなことはどうでも良くなったし、なにより『は理解してくれているのだから』という絶対的な安心感が昴を救っていた。

「みんないい人たちだもんねぇ。私もロボ部、入っちゃおうかなー」

当時はこれっぽっちもなかったはずの、『幼馴染みの女の子と秘密を共有したい』という邪な感情。ロボット制作を親に隠したかっただけの男子中学生は、いつから貪欲で不純でどろりとした気持ちを隠すようになったのだろうか。
相変わらず後ろから抱きついたままのを無視して、そのままゆっくり歩き出す。

「おまえ、理数系苦手だろう」
「えー、でもこの間、八汐先輩は『ロボットが好きならいつでもうちの部においで』って言ってくれたもん」
「いつの間にそんな交流を……」
「少し前に、こなちゃんにガンダムの漫画借りに行ったら、偶然あきちゃん先輩に会って、『ロボットが好きな女の子ってあんまりいなかったから嬉しい!』とか言われて部活に勧誘されたの」

そういえば、はメカニックなものが好きだった。昴が複雑な回路を組み立てているすぐ傍にちょこんと座って、何が面白いのか、何時間も何時間もじっと観察していたことを思い出す。
背が伸びて大きく成長した昴に比べ、おぶった状態でも歩けるほどに、彼女は小さいままだった。
それでも、なんとなく、の方がお姉さんっぽい気がする、と昴は思っていた。に面倒を見てもらっているという感が否めない。なんというか、しっかりちゃっかりとしているのだ。

「あのね、それでね、『タネガシマシン3』を見せてもらったんだよ! 私、あの子好き! あの丸っこいフォルムとかすごく良いと思うよ。ドラえもんもそうだけど、丸みがあるのって可愛いじゃない。だからさぁ」
「……言っておくが、M45は丸っこい形にはしないぞ。そんなことをしたら、非効率的な動きしかできなくなる」

幼いころはそうでもなかったのだけれど。
―――子どもの頃は、昴の方が、の面倒を見ていたからだ。
は、泣き虫で弱虫で、クラスの男子から年中からかわれている、かなり気弱な女の子だった。
多分、今思えばそれは「好きな子ほどいじめたい」という小学生男子特有の感情だったのだろうが、そんなことをちっとも知らないは、ランドセルを引っ張られたり、机に虫を入れられたり、髪の毛を変な風に結ばれたりする度に、わんわんと泣きながら昴の元に来て、そして言うのだ。

「ドラえもんが欲しいなぁ」と。

『のび太くんはいいな。のび太くんはドラえもんが助けてくれるもん。なんで私にはドラえもんはいないんだろ』
そう言って泣きながら学校に行くに、「僕がいつかドラえもんみたいなロボットを作って、ジャイアンから守ってあげる」と、言ったのは、何も慰めからの発言ではなかった。
たとえ、が欲しがったのがドラえもんではなくて、その四次元ポケットの中身だったとしても、それでも彼女の心を慰めてくれるようなロボットが作れたら、そうして笑顔になってくれたら、と思っていたのだ。

「……まだドラえもんが欲しいのか?」
「あはっ、すーちゃんまだ覚えててくれたんだ〜」

藤子F不二雄先生がドラえもんを執筆していたあの時代から、幾分の月日が流れた。あれから、かなり文明の利器は発展し、あの白くて丸いフォルムをしたおなかのポケットから出された道具の中には、もう実現されたものだってある。
それでもは、昴がドラえもんを作ってくれるのを律儀に待っているのだろうか。

「ううん、もうドラえもんはいらないの。というか、ドラえもんはもういるの」
「……そうなのか」
「あのね。私が本当に欲しかったのはね、ドラえもんじゃなくて、私を励ましてくれて、支えてくれて、一緒に泣いたり笑ったりしてくれる優しい人だったの」

が求めていたのは、のび太くんのそばで時に励まし、時に慰め、時に叱ってくれる存在だったらしい。
そのことにびっくりして振り返れば、すぐ横にはの顔が。その距離の近さに内心驚きつつも、素知らぬ風を装う。
いくら彼女に世話を焼かれても、なかなか素直になれないのは、『小さい頃は自分の方がお兄さんぶっていた』という気持ちの名残だろうか。

「魔法のような道具が欲しかった訳じゃないのか」
「私、そんな欲張りじゃないもーん」

むすーと怒ったように膨れるだったが、次の瞬間、いたずらっこのような顔になる。と思った瞬間、

「私にとっては、すーちゃんがドラえもんなんだよ」

ちゅっと軽いリップ音。

「な、なななな」

頬に温かい感触を感じ、何が起こったかを理解してガタガタと後ろによろめきながら動揺する昴に、は言う。

「ふふふ、すーちゃんの動き、ロボットみたい!」


私の可愛い猫型ロボット


(四次元ポケットから取り出しましたるは、)