じゅーいち、じゅーに、じゅーさん。 あれはいくつの頃だったであろうか。ほんの4つか5つの頃ではなかったか。 「廉造、ひとつ言うておくけどな」 にじゅに、にじゅさん、にじゅよん。 10つほど年の離れた次兄は、自分をよく可愛がってくれていた。短気ではあるものの、女子供には優しい、面倒見がよいお人なのである。 その日も、幼馴染みたちと競い合うように山を駆け回り、泥だらけになって帰宅した自分をお風呂に入れてくれたのを覚えている。 当時の自分は幼く、世界はまだ小さかった。大好きなものや人たちに囲まれて、毎日がただただ楽しかった。 ぼん。こねこさん。にいちゃんたち。おとん。おかん。おっさま。おかみさん。ちょっとすきじゃないけど、ほうじょうけのひとたちと、ナーガ。そして、だいすきなおんなのこ。 それが、俺……志摩廉造の世界を構成するもの全てだったころ。 「なんや?」 さんじゅご、さんじゅろく、さんじゅなな。 湯船では50までの数を唱えるのが習慣になっていた。自宅の風呂場はよく声が反響して、やまびこのようにくわんくわん鳴って、なんだか意味もなく楽しかったからだ。 けれども、くしゃりと頭を撫でながら兄が言ったひとことで、廉造の世界は大きく揺るがされることとなる。 「―――ちゃんのことを好きになったらあかんよ」 さんじゅはち、 ……その日は38までしか数えられなかったのを、今でも昨日のことのように覚えている。 +++ 「……暑いなぁ」 汗の玉が額から流れ、やがて地面にぽたりと落ちていくのを眺めながらも、重たい足を動かす。 夏は苦手だ。何のことはない、大嫌いな虫が活動的になるからだ。 いっそのこと夏も冬眠してくれればどれだけ心が平穏になることだろう。そうしたら、蝉に難儀しながら命がけで出歩くこともなくなる。 中学2年生の夏休みはまだまだ始まったばかりだというのに、もうすでに何度死線を潜ったことか。今日もこうして、坊や子猫さんの元に行こうとするだけで失神しそうなのだ。 いろいろな汗を流しながら、やっとの思いで目的地まで辿り着いた先には、 「なーにしとるん?」 退屈そうに足をぶらんぶらんさせ、手に持った水色の棒アイスを舐めている少女の姿。 こくり、と喉が鳴ったのは、身体が水分を欲しているからなのか、それとも。 「あ、廉ちゃん!」 眩しいほどの笑顔。 小さい頃から一緒にいる、だいすきなおんなのこ。 ―――そして、好きになってはいけない人。 「あんなぁ、水羊羹いーっぱい作ったんよ。で、皆におすそ分けに来たら、虎子さんがアイスくれてなー」 虎子さん、今日もめっちゃべっぴんやったわぁ。私もいつかああなりたいもんや。 両頬に手を当て、眼を細めて羨ましがっている。彼女は、ここ「虎屋」の女将さんのファンなのだ。 他の女の子相手だったら「すでに女将さんにも負けないくらいにべっぴんさんやで」と言えたはずだった。そうしたら、照れながら笑ってくれるはずなのに。 でも、たったそれだけのことが出来ない。 「そういや、坊と子猫さんはおらんの?」 正しく言えば、出来なく、なった。 「竜ちゃんは暑くてやってられへん言うて図書館へ。猫ちゃんは美術課題の写生しに行ったから、多分裏山やと思う」 隣に腰を下ろしながら問えば、予想通りの答えが返ってくる。真面目なお2人さんは休みもはよから宿題をすませる心算らしい。 どっか遊びに、とお誘いのためにここに来た自分とは大違いだ。 「廉ちゃんは宿題やったん?」 「いや、まだ全然手ぇつけてへんけど」 2人揃って靴を脱ぎ、縁側から直接客間へと上がる。誰かに見られたら文句を言われそうだったが、幸い人影は見当たらなかった。天下の夏休み、旅館としては一番の書き入れ時なのだから当然といえば当然か。 「うふふ、廉ちゃんならやってへんと思っとったわ。廉ちゃんはぎりぎりまで遊んで、最後にびしっと決めるタイプの男やもんねぇ」 「それ褒められてるのと貶されてんの、どっちなん!?」 「えへへへへ、どっちやろねぇ」 横を見る。 俯いて靴を揃えて端の方に置く所作も、花柄のワンピースを翻したりせずに静かに座布団に座る所作も、どれをとっても精錬された無駄のない美しい動きだった。 当然だ。だって彼女は、小さい頃から花嫁修行として、そう躾けられて来たはずだから。 ちりん、と金魚模様の風鈴が鳴る。 軽く目をつぶって、己の心に言い聞かせた。 ―――好きになってはいけない。この人を、好きになってはいけない。 小学校の入学式の日から、この呪文を何回唱えたことだろう。 『祟り寺の息子』として他人から白い目で見られることも多かった坊は、入学式でも悪い意味での注目を浴びていた。もちろん、関係者である俺や子猫さんもご多聞にもれず。 ただ不思議だったのは、青い夜とは全く関係のない、ごくごく普通の家庭で育った彼女までもがそのぶしつけな視線の被害に遭っていたことだ。 お寺の小坊主たちと仲良しさん、というだけでこうも好奇の目に晒されるものなのか。 『ちゃんもかわいそうやねぇ……』 その疑問はあっさり解決することとなる。厳かな式が終わった後の廊下で、奥様方の井戸端会議が教えてくれたのだ。 『将来、あんな祟り寺の子と結婚せんといけんなんてなぁ。あんなええ子なんやから、いくらでも貰い手あるやろうに……』 『な。ほんまにもったいない話や』 ハンカチで手を拭きつつトイレから出てきた俺の姿を見て、はっとしたように会話を打ち切る保護者たち。その横を、ばかに丁寧に頭を下げて通ってやる。 ……うすうす、気づいてはいた。 勝呂竜士というお人は、明蛇宗の18代目座主として、跡目を遺していかねばならない立場にある。だから、許嫁がいるであろうことも、予想の範疇だった。 「堅物で頑固な坊のことやから、そこんじょそこらの女の子ではついて行かれへんやろなぁ」と思っていたし、もし急にどこの誰かも分からん女を許嫁として連れてこられたところで、彼がそんな存在を認めるとも思えなかった。 そう考えれば、小さい頃から一緒の幼馴染みが嫁入りするのは、最善の策だと言える。 いや、逆か。許嫁だからこそ、傍に居させられたのかもしれない。 「廉ちゃん、あんな……」 「ん? なんや?」 座卓の向かい側。棒にわずかに残っていたアイスを口に入れた彼女が、声を潜めて言葉を濁した。長い睫毛がせわしなく瞬きを繰り返す。 10年ほど経った今、ようやく幼いころ風呂場で兄に言われた言葉が理解できるようになった。 「わ、私……廉ちゃんのこと好きや!」 『好きになったらあかんよ』。 頭では理解しているつもりでも、諦めるのは難しい。なぜなら、俺は一生彼女を嫌いにはなれないし、一生彼女から離れることができないのだから。 「おおきに。俺も好きやで?」 「……そーいう、好きじゃ、ない」 にへら、といつものように嘘くさい笑みを向けた先にある、今にも泣き出しそうな顔。それを真正面から見つめるのが、何となく怖かった。 彼女には定められた結婚相手がいて、明蛇宗の座主の奥方という未来が繋がっている。その人生の横にはいつでも坊がいる。すぐ近くには子猫さんがいて、そして自分もいる。 だから、彼女は一生俺を嫌いにはなれないだろうし、一生俺から離れることもできない。 報われない気持ちを抱えたまま、すぐ傍で互いの幸せを願わねばいけないのは、なによりも残酷だ。 「それ以上は言うたらあかん。絶っ対あかん」 「で、も、」 「はええ女や。だから、な? わかるやろ?」 俺とは、『ただの幼馴染み』なんや。 めったに呼ばない名前を2回も繰り返してまで突き付けなくとも、自分が将来、誰のところに嫁入りするのか、彼女だってよく知っているはずなのに。 「もう、わがまま言わんといてな?」 「……おん、」 返事はしたものの、とうとう堪えきれなくなったらしい。しゃくりあげながら泣き出したその小さな体躯を抱きしめてやることさえ叶わない己の無力さを、ああ誰が呪おうか。 もうじき、何も知らない2人が帰ってくる。 |
さよならバスにはきみしか乗らない
(僕らの想いは同じ終着点には行きません)
実らない恋に一生縛られたまま生きて行くのは辛いけれど。 2人一緒なら、きっと我慢できるだろう。 (ysキャラ夢企画「Le minuit clair」様へ!) |