走る。





(あぁこれが「スナックお登勢」の噂の娘?)
(へぇ、ホント美人じゃん)
(けっこういいカラダしてんじゃん)




脇目も振らず、ただひたすらに自宅を目指して。 




(さっすがお登勢さんが見つけただけあるな)
(いいじゃん、仕事でそーゆうことやってるんでしょ? 俺たちにもやってよ)
(仲良くしよーよ、ね?)




無関係でいられなかったから、常に警戒していたのに。
いつも気にかけねばいけなかったことなのに。




(誰からイく?)
(ほら、暴れるとダメだよ〜。キモチイイからさ)
(慣れてんだろ?そんな抵抗することかなぁ?)
(カメラある?)
(早くしろよ)




油断していた。
最近は優しい「彼」が送ってくれていたから、すっかり忘れていたのだ。
――近頃多発している、婦女暴行事件のことを。




(って! 止めろよこのアマ!)
(ま、少しくらいの抵抗があったほうが燃えるけど?)
(でもさ〜、俺たちだっていつまでも優しいわけじゃないんだよ?)
(てか、お高くとまりすぎ)
(アンアン言わせてやりてー)




服を引き千切ろうと近付いてきた一瞬に抵抗して。
押さえつけようとしてきた隙を突いて、逃げ出す。




破れた着物。
ぞっと身の毛もよだつ恐怖感。
数テンポ遅れて追いかけてくる靴の音と、嘲りと卑猥な言葉。
鞄をなんとか拾って、必死で駆けてる。草履が脱げたことなんて気になどしない。




走る。
走る。
走る。





震える手で何とか鍵を開けて滑り込んだ扉が、重い音をあげて閉じた。
ずるずるとへたり込んだら、堰を切るように涙が溢れる。




……怖い。




彼らは今何処にいるのだろう?
闇雲に走って辿り着いた自宅まで、彼らが来ないとは限らない。




「……やだ……っ」




自分の声は驚くほどに儚く消えた。




こわい。




男性四人相手に、女の力では敵わなかった。触れられたところが、鈍い痛みと怖気立つような気味の悪さで感覚に訴えかける。




こわい。




カンカンと階段を昇る音がした。――まさか、彼ら?




こわい。
こわい。
こわいこわいこわい!




一人では、いたくなかった。いられなかった。




すっぽりと毛布を被って。
寝室の電話機のダイヤルを回そうとして、はたと思う。






―――いったい誰に電話をするの?






妙ちゃん? ううん。女性を呼ぶわけにはいかない。
お登勢さん? 新八くん? 神楽ちゃん?
それとも、誰?




無意識に回した番号が万事屋のものだったことに、泣きながら笑う。
駄目だ。「彼」は、今晩昔の仲間と会う、と言っていたから。電話なんかできない。




―――じゃあ、誰に電話をするの?
―――誰もいない。




受話器からもれて来るツーツーツー、という音が、耳に響く。
虚しくなりすぎて笑えた。
求められるはずもない、優しく庇護してくれる、涙を拭う温かな手を求めてどうするのだろう?




受話器からもれる単調な音を聞きながら、涙は気配さえも感じないままに淡々と流れていた。






「遅いんだよ」




スナックお登勢で、お登勢が苛立った様子でキセルの煙をくゆらせながら、本日三回目のダイヤルを回し、通話中であることを確認して叩き切った。




「シフト変更とか休むとか連絡ないんですか?」
「聞いてないよ」
「事故とかの連絡はないアルか?」
「ないよ」




心配のためかかなり機嫌の悪いお登勢。
しかし、無断欠勤なんてしようはずもない人間がいないことは、新八や神楽もかなり心配で不安だ。落ち着かない。




「銀さん、家知ってるんですよね? やっぱり一回家に行ってきてくださいよ」
「倒れてたりしそうアル。どうせ仕事もないし、行ってこいヨ暇人」





そして2人の目線は、カウンターで黙ってパフェを食べていた男へ。




「……あァ」




大好物であるはずのそれは、アイスが溶けチョコは流れ出し、あげくの果てには大量のタバスコがかけられ、もはや原型を留めていない。
しかし、銀時はそれを無表情で口に運んでいるのだ。
明らかにおかしい。




「……そうだね。頼んだよ、銀時」




電光石火の速さで小さく消えていった銀時を見送ると、3人は溜め息を吐いた。




店から出た銀時は、下卑びた酔っぱらいの笑い声にふと足を止めた。







ガンガンガンと扉を叩く音に彼女は目を覚ました。
受話器を耳に当てたまま、床で眠ってしまったらしい。
次に、呼び起こされたのは恐怖感。




―――彼らが遂に自分に追いついた。




ガンガンと扉を叩く音が続く。
彼女は毛布を引っかぶり短刀を抱えると、クローゼットの中に飛び込んだ。








事情を説明して大家から鍵を借りた銀時は、人のいない気配に眉を顰めた。




「誰もいないのか?」




呼びかける声に応えるのは、シンとした静寂。風呂場、トイレ、キッチン、リビング。何処にもいない。
最後に残った一番奥の寝室の扉を開ける。
そこにあったのは、受話器の外れた電話機と乱れたベッドだけ。




「……っ!」




サッと血の気が引く。




あいつの身に何かあった?




刹那、鋭敏になった感覚に訴えかけたのは、極限まで押し殺された気配。




「誰だ!」
「いやぁぁっっっ!」




クローゼットを勢い良く開けば、カタカタと短刀が震えていた。
それは覗き込む彼の眉間にゆっくりと定められ。




「っ! 落ち着け! 俺だ、銀時だ!」




間一髪刀先を避けて伸ばされた腕を掴んで引きずり出された彼女は、ひどく惨めだった。




「何が、あったんだ?」




あぁ、何と言う愚問。




見れば解る。泣き腫らされた目。引き千切られた着物。乱れた髪。傷付いた表情。恐怖に強張る躯。




いつもの冷静さはまるでなかった。
再認識させられる。彼女は女だということを。それも、最悪な形で。




「ご……めんなさ……い」




震える手から短刀を取り上げながら抱き寄せた。強張る身体が愛おしくも悲しい。




「もう大丈夫だ。俺がついてる」




頭を撫でれば、次第に力が抜けていく。
ごめんなさいごめんなさいと呟き続ける人を、あぁ、俺はどうすれば。




     優
      し
       い
        そ
         の
          手
           を
            さ
             し
              の
               べ
                て

(地下下水道の堆積した汚泥の中に、ゆっくりと埋没していく四つの死体の存在を知る者は、「彼」以外誰もいない。)