「これを、鑑定してもらいたいんです」



ころんと音を立てて、鞄から出した使いかけの消しゴムくらいの大きさの妖夢石が転がった。
それを見た彩華さんの目が、一瞬すぅと細くなって、またすぐに戻る。



「いなくなったなーって思っとったら、がこの妖夢を倒したん?」



放課後。新堂写真館に来た私は、彩華さんに昨日捕まえた妖夢の鑑定をお願いしていた。
本当は昨日のうちに来れれば良かったのだけれど、なんだかんだで遅い時間になってしまって、諦めたのだ。

初めてのセックスは、予想していたよりもなんてことはなかった。むしろ、気持ち良かったくらいだ。
見聞きしていたよりも痛くなかったのは、ヒロくんが優しくしてくれたからなのかもしれない。だから、妖夢を倒すためだけに必要だった行為のはずなのに、そこに愛があったわけではないのに、2回目を求められたときに私は断ることが出来なかった。

明日こそは彩華さんのところに行かないとなーと思いながら、アキ兄のお説教を聞き流し、ご飯を食べて、お風呂に入って、眠った。いつも通りに、まるで何もなかったように。
身体に感じる違和感すらなかったのは、私が異界士として痛みに慣れすぎてしまったからだろうか。
……誰も、私の変化に気づかない。未来ちゃんも、ニノさんも、アキ兄ですらも。



「は、はい。なんかまずかったですか?」



授業が終わって、「盆栽たちにお水をやってから帰ります」と言う未来ちゃんと文芸部部室に行ったが、ヒロくんはいなかった。お礼を言おうと思ったのだけれど、3年生は忙しいのだろう。



「んー、ニノが狙っとった獲物やったんやけどなぁ。ま、妖夢は他にもいっぱいおるけん、大丈夫でしょ」



写真館は随分としんとしていた。愛ちゃんはまだ学校から帰ってきていないらしい。
お客さんもいないから、ここには、私と彩華さんだけだ。だからなのか、やけに声が反響しているように感じてしまう。そんなことはないのに。いつも通りのはずなのに。

そうこうしているうちに妖夢石がぼうと光り、やがて鑑定が終わった。
「はい、これ」と彩華さんから渡されたのは、1万円札の束だ。震える手で受け取り、枚数を数える。いち、に、さん、し……全部で8枚。



さんもなんやかんや高校生としての生活を謳歌しとるんやなぁって思うただけよ」



この妖夢が見えたんやねぇ、とウインクされた。
若干気まずくなりながら、財布に8万円を仕舞う。時折、彩華さんには全てを見透かされているような気になるのは何故だろう。(アキ兄ほどではないとはいえ)やはりすごい力を持つ妖夢だからこそ成せる技なのか。



「学校は楽しい?」



私は長月市が好きだ。ここは、まるで、ピーターパンに出てくるネバーランドみたいだと思う。
ネバーランドの子どもたちの母親代わりとしてウェンディが求められたように、異界士としての私を必要としてくれるこの街。



「はい、楽しいです」



あちこちを放浪していた弥生さんと出会ったそのときの私は、妖夢を倒すだけに生まれた暗殺者のような生活をしていた。
妖夢を倒さなければ家にも入れてもらえなかったし、ご飯も貰えなかったし、眠ることも許されなかった。喋ることは禁じられ、誰かと笑い合うこともなかった。学校にもほとんど行ったことがなかったし、友達もいなかった。
いつも孤独で、誰からも必要とされなくて。愛してもらえなくて、寂しかった。



「本当に、毎日とっても楽しくて……。アキ兄は良くしてくれるし、愛ちゃんは可愛いし、未来ちゃんとも仲良くなれたし、みーちゃんもヒロくんも優しいし」
「……なら、ええんやけど」



だからこそ、あの頃に戻りたいとは思わない。
父は優秀な研究者だったらしい。異界士ではなかったが、妖夢研究の第一人者として今でも有名だと、誰かが言っていた。
研究者としてはプロでも、人間としては屑だったのだが。
父は、優秀な異界士を誕生させたいという己の探究心のためだけに高い異能力を持った母に近づき、結婚した。
妻に興味を持ったのは、子どもが生まれるまで。やがて産まれた私がそこそこの力しか持っていなかったのが分かった途端、父は家族に一切の興味を失い、やがて家に帰ってこなくなった。
若き母は精神的にも肉体的にも弱く、幼かった。自分から愛する人を奪った自身の異能の力と、出来そこないの娘を憎み、遠ざけた。

妖夢を殺さねば、認めてもらえなかった。愛してもらえなかった。少しでも失敗すればそこに私の居場所はない。生きて行くためには必死で戦わねばならない。
たまたま放浪中だった弥生さんが「うちの息子の世話をしてくれないかにゃあ?」なんて冗談っぽく提案してくれなかったら、今でも私はあのままだっただろう。



「未来ちゃん、鑑定終わったよ。約束通りご飯行こうご飯! 奢るよ!」



新堂写真館を出、扉に寄りかかるようにして立っていた未来ちゃんに声を掛ける。
中でどんな会話になるか分からない以上、昨日のことが未来ちゃんの耳に入る可能性がないわけじゃない。そこからアキ兄も知ることとなって、めんどくさい展開になるのは嫌だなと思って、申し訳ないのだが、外で待ってもらっていたのだ。



「あの、でも本当にいいんですか?」
「いいのいいの! 8万入ったから、ゴージャスに行こう! 焼き肉です!」
「そ、そんな高額な妖夢がいたんですか!? 全然気付かなかった……」



あー、なんか見えにくかったからね、と誤魔化す。



「うるさいから、アキ兄にはナイショでね。みーちゃんも呼ぼう! 女子会だよ!」



みーちゃんOKしてくれるかなぁ、と言いながら、スマホを取り出し、電話帳を呼び出す。
温かくて優しいこの街に居られるためならば、みんなに「私」という存在が必要とされるのならば、私は何も辛くない。
可愛い眼鏡を掛けるのだって楽しいし、ご飯を奢るのも大好きだ。妹キャラでいることも性に合っているし、毒舌家だけど優しい先輩に甘えるのも気恥ずかしいけど悪くない。



「あ、みーちゃん? 未来ちゃんと3人で、焼き肉屋さんで女子会しない? うん、そう、私の奢りだよ。臨時収入があったから。……OK、分かった。じゃあ待ってるね!」



妖夢を倒すのだって同じだ。私の力が求められているというのならば、自分の何を犠牲にしてでも、喜んでその力を差し出そう。



「美月先輩、来れそうですか?」
「うん、大丈夫だって。先にお店で待ってて、って言ってたよ」



この街の平和を守るため、私は命を張って妖夢を倒さねばならない。そんなことが起きなければ良いけれど、もしそうなってしまったら。



(……もし私が死んじゃっていなくなっちゃったら、みんなは泣いてくれるかしら)



「お肉なんて久しぶりですよ!」とはしゃぐ未来ちゃんが、眼鏡のことで一喜一憂するようなアキ兄が、ツンデレ気味だけど優しいみーちゃんが、そして昨日私のために(文字通り)一肌脱いでくれたヒロくんが、悲しんでくれたら、それだけで報われるのだけれど。




+++




焼き肉は美味しかった。
やっぱり自分で労働して手に入れたお金で食べるご飯は格別だし、誰かと一緒に食べる夕飯は美味しいし、その誰かが笑顔でいてくれるのならば、更に美味しい。
焼き肉食べ放題のお皿が5枚以上積み重なっているのを見ながら、私は大層満足していた。未来ちゃんもみーちゃんもまだ食べれそうだ。次はレバーを注文しよう。



、今日は早く家に帰りなさいね」
「なんで?」



ハラミを焼きながら、みーちゃんが言った。声が少し尖っているが、煙の向こう側に見える顔は、昨晩のアキ兄と同じ表情をしている。



「昨日、秋人から何度も電話がかかって来て迷惑だったのよ。『が帰って来ないんだけど知らないか』って」
「あっ、私もです。先輩から『一緒じゃないか?』ってメールが20通くらい来てました」
「20通も!?」


うちもそうだけど、兄貴分っていう生き物は、ちょっと帰りが遅くなったくらいで過保護よね、ストーカーみたい。
口ではそう文句を言いながらも、割り箸の握られた指は焼きあがったホルモンをお皿に取り分けてくれているみーちゃんだって充分、私や未来ちゃんを甘やかしてくれている。



「人にどうこう言う割には、自分だって帰りが遅いくせに」
「うう、ごめん。昨日ヒロくんを長々と付き合わせてしまったのは私です……」
「兄貴はいくら帰り遅かろうが構わないのよ、男なんだから。でもは気をつけなさいね」



ピッ、と割り箸の先を私に向けながら言うみーちゃんの矛先は、オレンジジュースを飲んでいた未来ちゃんにも飛び火した。



「栗山さんもよ。いくら異界士で普通の人より強いって言ったって、限界があるわ。女ってだけで狙われることもあるんだから」
「そ、そうなんですか?」
「あー。みーちゃんはモテるから、そういうの多そうだねぇ」



名瀬家は美形揃いだ。泉さんもみーちゃんも美人さんだし、ヒロくんもイケメンだし。
後輩たちの間でも「黒髪の綺麗な美人先輩」として人気のみーちゃんだが、あの毒舌のせいなのか、少し妙な性癖のファンが寄って来たりすることがあるのを私は知っている。
もちろん、兄であるヒロくんも、よくおモテになるらしい。大地主という家柄もプラスされ、一部で「優しくてかっこいい王子様」と持て囃されているんだとか。実際の中身は王子様どころか、シスコンの変態おにいちゃんなんだけれど。



「そういうのだけじゃないさ。家が金持ちってだけで誘拐されかけたりもしたぞ」
「げっ、兄貴」



噂をすれば、なんとやら。
いつの間に来たのか、レバーの乗ったお皿を持った店員さんの横に、ヒロくんが立っていた。
「変な奴に狙われないようにお兄ちゃんが迎えに来てやったぞ!」とか胸張って言っているが、何故ここが分かったのだろう。

―――もしかしてこの人、みーちゃんにGPSとか付けているんじゃ……?
その思考はうっかり口に出ていたらしい。



「昨日、『焼き肉を奢るつもり』って言ったのはの方だぞ。この辺で焼き肉屋はここしかない。それにGPSなんかなくたって、兄として美月の気配ぐらい追えなくてどうする」
「気色悪いわ兄貴。焼き肉の材料として焼かれて来て頂戴」
「そうだな、可愛い妹に食べてもらえるならそれもいいかもしれないな」



淡々と真顔で口喧嘩する兄妹のその内容の惨さに店員さんの顔が引きつっている。慌ててレバーのお皿を受け取ると、下がってもらった。足早に逃げて行く店員さんに心から同情の念を禁じ得ないが、この2人は一応、この街の名士のご子息ご子嬢なのである。



「それに、帰るも何もまだ食べ終わっていないのよ。新しいお皿が来たばかりなのが分からないのね、馬鹿兄貴は」
「なに、可愛い妹たちと帰るためなら、いくらでも待つさ」



発言は険呑な割に、コミュニケーションのキャッチボールは軽快だ。その変な雰囲気に未だ慣れないらしい未来ちゃんが私の横でおろおろし始めた。ウーロン茶を飲みながら、私はヒロくんの肩を叩く。



「あのね、あの妖夢8万円もしたんだ。ヒロくんも焼き肉食べて行ってよ」
「昨日も言っただろ。俺はもう何もいらないって」
「昨日も言ったけど、私まだ何も支払ってないよ」



埒が明かない会話を続けていたが、ヒロくんは溜息を付くと「ちょっと電話してくる」と言って、トイレの方向に去って行った。



「さて。兄貴が電話してるこの隙に帰りましょうか、2人とも」
「えぇ! でもまだレバー焼けてないんですよ? デザートも食べてないし……」
「そうだねー。さっき、みーちゃんも言ったじゃない。女の子は危ないんでしょ? ここは素直に送ってもらうことにして、もう少しゆっくりしよう」



むっ、と言葉に詰まったその隙に、デザートメニューを見せる。
そっぽを向いて不貞腐れたように「……バニラアイスが食べたい」というみーちゃんを見て、未来ちゃんが眼鏡を押し上げながらくすりと小さく笑った。



―――ああ、本当に、友達とは良いものだ。




+++




「焼き肉美味しかったです。あの、ホントにありがとうございます! ごちそうさまです」
「ごちそうさま、。お礼代わりと言ってはなんだけれど、今度うちにご飯食べに来なさい」
「いえいえ。そんなとんでもない。喜んでもらえて何よりです」



未来ちゃんが結構食べた割には、焼き肉屋の金額は大したこと無かった。お金はまだ半分以上残っている。8万円を使いきるには、案外難しいようだ。



「ヒロくんだったら、8万で何する?」



店員さんからお釣りを受け取りながら。『アッキーがいないから』という理由で、私の脇の下で暖を取っている眉目秀麗な先輩に訊ねてみた。
私の脇は温かくないし、なんか人目がすごいし、何よりセクハラだと思ったが、昨日もっとすごいことをしている手前、何も言えなかった。それになにより、「外は寒いから、少しでも店の中にいたい」と言うその手がびっくりするほど冷たかったのは事実だったので。



「……そうだな。俺なら、」



だけれど、その答えが聞けることはなかった。なぜなら、



「大変です! 妖夢が出ました!」



ひと足先に店から出ていた未来ちゃんが呼びに来たからだ。
カランカランと鳴るドアベルの音と共に慌てて外へ飛び出せば、冷たい風が吹きつけて来る。みーちゃんの使い妖夢であるヤキイモが目の前を走りすぎて行った。
しかし、



「……何処にいるの?」



妖夢の姿は見えない。



「え? 目の前にいる、そのグロテスクなやつですよ!」
、見えないの? あんなに大きなやつが? 目が悪いの?」



そう言われてみれば、うっすらではあるが、なんとなく気配はしている。
それにしても、なんで見えないのだろう。そう思いながら、掌の上で氷の槍を作り出す。
異界士の力を急に失ってしまったかとも思ったが、さっきヤキイモは見えていたし、何より手に握った槍がそんなことはないという証拠である。



「そいつは、子どもにしか見えない妖夢だ! 悪いが、2人にしか倒せない!」



だから、叫んだヒロくんにセーターを引っ張られ、周囲を檻で囲まれてから、やっと、自分のミスに気が付いたのだ。



「兄貴、それって、」
「良く分からないですけど……分かりました!」



誰よりも早く反応した未来ちゃんが何もない空間へ飛び出していくのをもどかしい気持ちで見ていると、何かを察したようなみーちゃんと目が合った。
そのまま、ふいと視線を逸らされる。



「あ……」



きつく下唇を噛みしめた。
みーちゃんの瞳に込められた感情が失望なのか、落胆なのか、諦めなのか、悲しみなのか、私には判別がつかない。それでも、その中に一瞬、同情が交差していたことに気付いてしまった。



「あれは、昨日のと対になる妖夢だ。彩華さんから聞いてないか? コンビというかペアというか、要は2体で1体だったらしい」



妙な妖夢のくせに値段が低めだったから変だと思ったんだ、と一緒に檻の中で待機モードのヒロくんが言う。ああ、さっき電話していたのは彩華さんだったのか、と今更になって気付いたが、内心それどころじゃなかった。
子どもにしか見えない妖夢だなんて。そんなのがいるなんて。
そいつが見えない私は、足手まといにしかならない。ただのお荷物だ。



「ごめんなさい。役に立てなくてごめんなさい……」



私の眼には、何もいない空間を囲んだみーちゃんの檻の中で、未来ちゃんが血の刀を奮っているようにしか見えないのだ。



今の生活を維持したいと願っていたウェンディは、ネバーランドで大切なことを学んだ。子どもたちを守るために強くなって、そして大人になった。
私も同じだ。
楽しく生きていきたいと願った私は、この長月市で大切なことを学んだ。優しい人たちを守るために強くなりたかった。妖夢を倒すために、大人になりたかった。
ただ、それだけだったのに。その結果が、このざまだ。



未来ちゃんの気合の入った掛け声がして、血が赤い滴となって宙に散った。妖夢は消滅したのだろう、地面に落ちた妖夢石がこっちに転がってくる音がする。



「割れたガラスの靴は、2度と元には戻らないんだ。たった一度きりの尊いものを手放すなら、もっと慎重にならなきゃいけなかったんじゃないのか」



ああ、妖夢が倒せて良かった。そう思って安心したハズなのに。どうしてだろう、胸が痛い。
胸だけじゃない。おなかが、下腹部が、太股が、腰が、さっきまでは何ともなかったはずの身体中がじくじくと痛い。

勘のいいみーちゃんは、私があの妖夢が見えなかった理由を含め、昨日、誰とどこで何をしていたのか、大方のことに気付いただろう。
何も知らず、この後純粋に訊ねてくるだろう未来ちゃんの追究から逃れられる自信もない。



「……



ヒロくんに真正面から抱きしめられて、初めて自分が震えてながら泣いていることに気付いた。なんで泣いているのだろう。―――もう、子どもでもないのに。



「自分がしたことは何も間違ってないって思ってたのに、なんで泣くんだ?」



怒ったように言うヒロくんの言葉は最もだ。なのに、どうしてだろう。セーターの袖で拭っても拭っても涙は止まらなかった。




ピーターパンはお役御免
(おとなはみえない しゃかりきコロンブス ゆめのしままでは さがせない)







このままずっと檻の中にいられたらいいのに。ヒロくんの作り出した檻の中で、何も考えずにいられたらいいのに。
真綿で包まれた自分の布団の中で、楽しく夢物語を空想していた頃の何も知らなかったウィンディは、もういない。




BGM:「パラダイス銀河」-光GENJI



(多分、この後は、弱った心の隙を付くように博臣が「8万あげるからまたヤらないか」とか「あの大量のコンドームを消費するの手伝ってやる」とか言い出して爛れた関係になったり、妹分の鞄の中の大量のコンドームを見つけて驚いた秋人に相談された博臣が、うっそりと笑いながら「実は俺が相手なんだよアッキー」とか言って、大喧嘩になる日常があるんだと思います)(多分書きません)
書いてしまいました……