もう春だと言うのに、放課後の風はまだまだ冷たかった。冷え症には堪える時期は、もうしばらく続きそうだ。 このときばかりは、こんな弊害を招いたこの異能力を恨んでやまない。息をする度に白い靄を作り出す口元までマフラーを押し上げた。 「ねーねー、ヒロくん。お願いがあるんだけど」 部活をサボって、陽の当たる屋上(暖房が利いていない室内よりは暖かい)でのんびり寝転びながら読書をしていた俺を揺さぶる人影がひとり。 少し大きめの灰色のセーターで隠れたその小柄な体躯。守ってあげたくなるような細い腕。花柄のシュシュによって高めの位置で結ばれたポニーテール。制服のスカートとニーハイの隙間から覗く絶対領域。男心をかきたてる『妹オーラ』を漂わせる童顔さ。 「なーに。どうしたの」 。タメ口で喋ってはいるが、後輩である。高校1年生だ。 栗山未来や、新堂彩華の妹の(ということになっているが、実は妖夢である)新堂愛と同じ歳の彼女は、こう見えてもすご腕の異界士でもある。ついでに言うと、眼鏡の似合う美少女(アッキー談)で、美月ほどではないが男子生徒からの人気も高い(個人調べ)。 「『お兄ちゃん』って呼んだら、私の言うこと聞いてくれたりしない?」 「内容にもよるな」 「簡単なことだよ! 私とセックスしてくれないかなーって。キスはしなくていいので」 ―――たまにする突飛な言動を見ている限り、そうと見えないのだけれど。 「な、なぜそうなった……」 「えっ、ヒロくん、私のこと嫌い? それともやっぱりみーちゃんじゃないと勃たない?」 「妹スキルは充分兼ね備えているし可愛いと思うし嫌いじゃないし美月をそんな目で見てないし、でも、これはそういう問題じゃないだろ……」 きょとんとする彼女に頭を抱える。どうしてそうなった? 後輩の神原秋人ことアッキーも、この間「の考えてることが分からない……。確かに僕は眼鏡が好きだ! だが、だからと言って同時に眼鏡を5つもかけられても困るだけだ!」と音を上げていた。どういう状況だか理解は出来ないが、の発言がよく分からない点に関しては激しく同意できる。 「大人にしか見えないっていう妖夢を倒したいの。ニノ先生と彩華さんがそんな話をしてて……。大人って、つまり『処女じゃない』っていう、そういうことみたいでね?」 いつだったか、ニノさんや泉姉さんから「この街に新しい異界士が来る」という話を聞いたとき、まさか高校生だとは思わなかったし、長月高校に転入してくるとも思っていなかった。 もちろん、こんなトンデモ少女だとも思っていなかったのだが。 妹の美月曰く「あの子、目を離せないような不安定さがあるのよね」とのことだが、男として(そしてブラコンとして)はそこが庇護欲をそそられるというかなんというか。 「どうしても倒したいの。お願い! 気になるし、値段もお高いらしくて」 少し照れたように頬を染めて両手を合わせて拝むポーズをするは、さっきの言葉に偽りなく、充分可愛いと思う。 ……思うが、それとこれとは話が別だ。 「神原家の家計はそんなに貧窮しているわけ?」 「してないよ! 弥生さん、ちゃんとお金送ってくれてるし! でも私は居候みたいな身だから。あんまり迷惑かけるのもなーって」 神原弥生。アッキーの母親で、の師匠でもあるらしい。 異界士としては高名だが、能天気で破天荒であるあの母親に物を教えることが出来るのかどうかは謎だが、自身も腕の立つ異界士として評判なので、まぁそれなりなのだろう。 弟子であるは、現在(息子を心配する弥生から命じられて)アッキーのお目付役として、神原家に住み込みつつ、異界士としての仕事をしている。異界士を束ねながら、半妖である彼の監視をしている名瀬家としては、大変にありがたい存在だ。 だけれど。 「もしみーちゃんが巻き込まれたら、困るのはヒロくんでしょ。それに、めんどくさい妖夢は名瀬家としても早々と倒しておいた方がいいんじゃない? 私は普段お世話になってる未来ちゃんにも何かお礼ができるし、一石二鳥どころか三鳥だよ!」 自分の身は蔑ろで、ただひたすら妖夢退治のために動くは、まるで奴隷のようだ。 栗山さんのように、「家賃のため、仕方なく妖夢を倒します!」というのならまだ理解できる。 でも、そうじゃない。 「焼き肉とか奢ったら喜んでくれるかなぁ」と嬉しそうに話すは、心優しいくせに戦闘を好む。なぜなら、『妖夢を倒さない異界士はこの街には必要ない』と思っているからだ。 ……そんなことはないのだが。 溜息が出る。 多分、俺が断っても、この子は別の男の元へ行くだけに違いない。処女を捨てられて、それで妖夢を退治できるのならば、相手は誰でも良いのだから。 「分かった分かった」 そこら辺に残っている地味で童貞そうなクラスメートなら誘われたら喜んでついていくだろうし、俺が初めての相手にならなければいけないという義理もない。俺を選んだ理由だって『実の妹以外の女子に興味がないし、後腐れなさそうだから』とかだろう。 (―――とはいえ、ここで見捨てて後味の悪い思いをしても嫌だろ?) そう自分に言い聞かせて、の手を取る。 異界士は孤独な存在だ。 普通の人とは違う物が見える。普通の人には見えないものが見える。夜空は紫色に見えるし、何もいないはずの空間には妖夢がいる。そんなことがあるからなのか、確かに異界士はどこか達観している人が多い。 とはいえ、の達観さは、いつか身を滅ぼしかねないレベルだと思う。アッキーの保護者代わりなどと本人は言っているが、むしろ保護者はアッキーの方だ。 「ホント!? ありがとうお兄ちゃん!」 「あ、このタイミングで呼ぶのか……」 本当の妹でもないし、別に後になってがどれだけ後悔しようが、俺には関係ないはずだ。 そのはずなのに、どうしてこんなにも腹が立つのだろう。 +++ 「?」 胸の辺りでもぞもぞ動く小さな頭。髪の毛の先がちょうど鼻を掠めてくすぐったい。 体温の低めの自分とは違い、温かいその身体を抱きしめて、ほっとひと息吐く。 の異能力は、一定の空間を凍らせることだ。妖夢を直接凍らせて封じ込めることもあれば、槍のようなものを作り出して突き刺して倒すこともある。こんなに体温が高いのに、氷の能力を行使するのだから不思議なものだ。 「どこか痛いところはないか?」 誘い込まれのは、保健室だった。「だってラブホテルとか入って、大地主の名瀬家の長男だってバレたらマズイでしょ?」ということらしい。そんなの気にしなくてもいいと思ったが、言わないでおく。 周囲には人避けの結界を張って、鍵は閉めた。その上、「保健医は出張中です」というプレートまで下げておくほど念には念を入れた。これなら一般の生徒は近づけない。 驚いたのは、自らコンドームを用意していたことだ。しかも、形やサイズ違いや匂い付きなど、様々なものを何種類も。 目を丸くする俺に「今朝、コンビニで買ったの。いっぱい買ったからちょっと恥ずかしかった」と言い訳するように告げたけれど、アッキーと一緒に登校したはずの彼女がどうやって買ったのか気になる。 「ううん。思ってたよりも痛くなかったし、気持ち良かったよ」 ……とんだ小悪魔め。 は始終、甘い声で啼いた。挿入れた瞬間にだけそっと背中に立てられた指先はかなりの深爪になっており、皮膚を突き破ることもなかった。 痛みすら共有できなかった俺は、だから、ゆっくり動きながら未開封のままのコンドームの行く末を考えていた。俺が使ったのはノーマルのものなので、イボイボタイプとか、苺の匂い付きとかが残ったわけだが、あれらはどうなるのか。 「それは良かった。もう行くか?」 「んー、ちょっとまだ腰とかダルいから、もう少し休む……」 でもあんまりゆっくりしてると帰り遅くなっちゃうね、と動こうとしたを制して、上体を起こす。 「妖夢倒すの手伝うから。はもう少し休んでおけよ」 「うー、ありがと。ごめんね……」 とはいえ、片づけを始めておかねば。マニアックなプレイをしたわけではないし、未だ裸のままのお互いの身体はさっぱりしていたが、血やらアレやらで汚れているのだ。処理はしないといかない。 シンデレラの童話を思い出す。 時間に焦った故に、シンデレラの正体はバレた。おそらく、階段で靴を落とさずにいれば、『綺麗なお姫様』の真の姿である灰かぶりが見つかることはなかったはずだ。 あるいは、彼女に魔法をかけた魔法使いが最後までサポートしてくれて、靴を消してしまえば良かったのだ。 そうすれば、シンデレラが見つかることはなかった。永遠に、仕事熱心で可哀想で愚かな『灰かぶり』のままでいられた。 「ヒロくんの男の勲章、かっこいいねぇ」 そんなことを考えながら、ベッドに腰掛けてゴムの口をきつく結んでいた俺の背中の傷跡をなぞって、背後でがふふふと笑う。 温かい指先の感触。そこにだけ体温が灯り、やがて離れて行った。 この温かくて小さい手が、罪悪感や喪失感に襲われることもなく無残に妖夢を殺すのだ。そう考えると、異界士とはなんと残酷な生き物なのだろう。 「例の妖夢、どこにいるんだって?」 「駅前のショッピングビル。屋上に根を張ってるらしくて」 上半身を起こして、大きく伸びをしながら解けたポニーテールを結い直すは、悔しいほど平然としていた。処女ではなくなってこれで妖夢を倒せる、という喜びからなのだろうか、浮かれているようにも見える。 「ああそうだ、ヒロくん。このことはご内密でお願いしたいのですが」 「そうだな。もう1回ヤらせてくれたらその約束を守ろうじゃないか」 冗談でそう言ってみると、「そんなことでいいの?」と驚いたように瞬きを繰り返す。 ……そんなことで、と来たか。 事の重大さを分かっていない子にはお仕置きだとばかりに押し倒してやる。裸でくすぐったそうに笑うを見て、このまま一生檻の中に閉じ込めたら面白いだろうなとふと思った。そんなこと、出来っこないのだけれど。 シンデレラにかかった魔法は12時で解けてしまう。所詮、永遠に解けない魔法なんてないということだろうか。ガラスの靴だけは本物のくせに。 +++ 「遅いっ!」 「ひっ!」 妖夢を倒して、慌てて神原家に帰るを送っていけば、出迎えたのは、アッキーの怒声だった。 「ご、ごめんなさい……」 「遅くなるんだったらちゃんと連絡しなさい! こっちはご飯作って待ってるんだから!」 「アキ兄、お母さんみたい……」 「僕は夜遊びしてくるような悪い子を産んだ覚えはありません!」 相変わらず冴えわたっているツッコミがとても痛々しい。 あのあと、保健室でダラダラしてしまった挙句、妖夢を倒すのに手間取って、結局彩華さんのところに行くのは明日になった。それでも20時過ぎた現在、家に着くまでは一切連絡をしなかったらしい。 アッキーは本当に心配していたのだろう。しかし、その感情は彼女には伝わらない。 「確かに、アッキーが産んだわけじゃないな」 「博臣も博臣だからな! 実の妹に見放されたからって、他人んちの妹にまでちょっかい出すとか止めてくれよ、見苦しい」 「失礼な! 美月はまだ『お兄ちゃん大好き』って言ってくれている!」 他人のうちの妹にちょっかいを出したことについては否定しないでおく。 おそらく、自分のことは二の次に考えるは、誰かから心配されるということがうまく理解できていないのだろう。 遅いし危ないから家まで送って行く、と言ったら「なんで?」と首を傾げられたときはどうしようかと思った。 「違うんだよアキ兄。私がヒロくんにお願いごとがあって、それで、」 「ふーん。2人で部活サボって遊んでたわけですかそうですか」 「違うよ! よ、妖夢を倒して来たんだよ……」 私も一応異界士なんだからね、と唇を尖らせて拗ねたように言う。 そこまで胸を張って誇れる彼女が羨ましく、でも恨めしい。 あそこまで異界士として身を粉にして働いているのだから、異能力なんてなければいい、異界士になんかなりたくなかった、と思ったことがありそうなのに。 それなのに、は今日もこうして、妖夢を倒すために大切なものを捨て去ってしまった。 「知ってるよ。母さんの優秀な弟子なんだろ」 「そう。それと、今はアキ兄のお目付役です」 「お目付役の方が素行不良でどうすんだよ……」 口ではそう言いながらも、罰と称して眼鏡を掛けさせて和んでいるアッキーを見るに、無事に帰って来て安心したのだろう。危なっかしい妹分を持つと気苦労が多そうだ。その点、うちの美月はしっかり者なので安心である。 「博臣、上がって行くか? お茶くらい出すけど」 「いや、今日は帰る。―――、お風呂入って暖かくして寝るんだぞ」 「う、うん。いろいろありがとう。換金してもらったら何割か払うね」 「いい、いらない」 アッキーの好意を断りながら。オレンジの縁の眼鏡を掛けさせられたままのの頭を優しく撫でる。 「え? いらないの?」 さすがお金持ちは言うことが違うねー、と何も分かっていない声音で言う彼女は、おそらく、今朝家を出たときと何も変わっていないと思っているのだろう。 「もう充分支払って貰ったさ」 「? まだあの石、換金してもらってないけど……」 自分に与えられた仕事に真剣で、自分のその価値に気付けない灰かぶり。舞踏会にも行かずに働く可哀想な彼女を見初め、その手助けをするのは魔法使いのお役目である。 そう。灰かぶりに最初に目を付けていたのは、王子様じゃない。魔法使いなのだ。 「―――ま、いっか。おやすみ、」 「う、うん……? おやすみなさい」 可哀想に。鈍いお姫様は、朝までとは違う自分になってしまったのだということに、いつ気付くのだろう。 不思議そうな顔をしたままのに何も言わず、再度頭を撫でてやると、俺は扉を閉めた。 「妖夢、無事に倒せて良かったけど、今度からはちゃんと連絡するように。分かったな?」 「はぁい。分かりましたー」 閉ざされたドアにもたれかかるようにずるずるとしゃがみ込む。その向こうでは、がさっきまで何処で誰と何をしていたのかなんぞ露知らぬ秋人の声がした。 |
シンデレラと雇用契約
(あなたに おんなのこのいちばん たいせつな ものをあげるわ)
「。それは、簡単に捨てていいものではないし、ましてや好きでもない男にやるものじゃないぞ」 マフラーに顔を半分埋めながら、今さらなことを小さくつぶやく。 俺は、あの子の王子様にはなれなくても、魔法使いにはなれただろうか。 BGM:「ひと夏の経験」-山口百恵 続きました。 |